第38話 救世主エストリエ

「急ぎましょう。ゲートはすぐに閉じてしまいますから」


「は、はい」


 フレイヤさんに手を引かれて、僕は「穴」の向こうに広がる世界へと足を踏み入れる。


 そこは――ゴッドランドの王都は、いわゆる中世ヨーロッパ風の街だったのだが、地球上のそれとは決定的に異なっている点もあった。


 あまりにも、清潔すぎるのだ。


 道にはゴミ一つ落ちていない上に、汚臭もしない。


 女性が履く靴の一種であるハイヒールは、今日では背を高く見せるためのファッションとして扱われているが、元は汚物だらけのパリの街を歩いても、足が汚れないように発明されたという説もある。


 十九世紀までのロンドンも似たようなもので、幕末に江戸を訪れた外国人は、そのあまりの清潔さに驚嘆したと言う。


 それは上下水道や、糞尿を肥料として利用するシステムが確立されていたからなのだが、ゴッドランドの場合は、魔法によってインフラを整備しているのだろうか?


 だとしたら、国民のほとんどが性欲を奪われた影響で魔法を上手く使えなくなっている今は、それが崩壊していてもおかしくはないのだが、そんな様子はない。


 となると、僕たちが使っている「フュージョンクリスタル」のような、「条件魔法」が刻まれた道具が、この国ではインフラを担っているのかもしれない。


 僕がそんなことを考えていると、白髪はくはつ、金髪、銀髪など、多少の差異はあれど一様に色素の薄い髪色をしており、耳の尖った通行人たちが、フレイヤさんの存在に気が付き、一斉に片膝を立てて跪いた。


 そういえば、この世界の暦がどうなっているのかはわからないが、少なくとも今のゴッドランドは日本よりもだいぶ日差しが弱い上に、気温も低いような気がする。


 彼ら、彼女らの毛髪にメラニン色素があまり含まれていないのは、そのためだろうか。


『お帰りなさいませ、王女様』


「はい。フレイヤ、ただいま戻りました。皆様、どうぞお立ちください」


 微笑んで手を振り、民衆に柔和な態度で語りかけるフレイヤさん。


 強姦未遂犯たちに対しては、王族らしい威厳を発しながら死刑を求刑した彼女だが、無礼を働かなければ、平民に対しても優しいようだ。


 まあ、バッグサーの活動に参加していた時の態度から、わかっていたことではあるが。


 それにしても――フレイヤさんの指示に従って立ち上がり、元の日常へと戻っていく彼ら、彼女らの顔には、どこか覇気がないように感じられるのは気のせいだろうか。


 まるで現代の日本で働く、会社員や公務員のようである。


「いえ、以前はもっと活気があったのですが……エストリエに性欲を奪われて以来、こうなってしまったのです」


 僕が市民の様子について、「ゴッドランド人って元々こういう感じなんですか?」と尋ねると、フレイヤさんは即座に否定した。


「そういえば、三大欲求のバランスが崩れると魔法が上手く使えなくなるって、前に言ってましたっけ……」


 今の光景を見れば、それも頷ける。


「はい。ゴッドランド人にはわたくしと同じように、勇者さまを崇めている者が多いですから、以前であればわたくしが日本から男性を連れ帰ったりすれば、『そちらのお方は勇者さまでしょうか!?』と、口々に質問してきたはずなのですが……」


「今はそんな気力もない、と?」


「……おそらくは」


「…………」


 僕たちが日本でゴーレムと戦う時は、いつも数分以内に倒してしまっていたので、性欲を奪われた人々の状態に対して、思いを馳せることもなかった。


 だが、実際にこうして無気力になってしまった人々の様子を目にしていると、「エストリエを助けたいという自分の気持ちは、果たして正しいのか?」という疑問が浮かんでくる。


 いや。


 彼女はまだ、取り返しのつかないことはしていない――人を殺してはいないのだ。


 ゴーレムに奪われた日本人の性欲が、それを倒せば取り戻せたように、エストリエを説得することができれば、ゴッドランド人の性欲も元に戻せるはず。


 僕が、そう考えていた時のことだった。


「す、すみません。王女様と勇者様……ですよね?」


 青い右目の下に大きな青あざを作った、短い金髪の少女が、おそるおそる話しかけてきたのは。


 年齢は、日本人で言うと中学生くらいだろうか。


 フレイヤさんやゲルズさんに比べると庶民的な雰囲気だが、みずほらしいと言うほどでもない。


 おそらくは、中流階級の生まれだろう。


「ええ。あなたは……?」


「私はアンナと言います。大工の父と二人暮らしで……見ての通り、親からはよく暴力を振るわれていました」


 首肯するフレイヤさんに、少女――アンナは自分の身の上を話した。


「過去形……ですか?」


「はい。父は仕事で気に入らないことがあると、物理的にも性的にも私を傷つけてきたんですが……エストリエが現れてからは、すっかりおとなしくなったんです」


 僕が尋ねると、アンナはそう答えた。


「………………」


 どう答えていいかわからず、僕は黙って俯くしかない。


 経済的に自立できていない彼女は、父親から暴行されても、黙って嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかったのだろう。


 そんな時、エストリエがゴッドランドの人々から性欲を奪い取った。


 すると、どうなったか。


 父親から性的な暴行を受けることがなくなったのはもちろんのこと、先程の人々の様子や、犬や猫といった哺乳類が去勢をするとおとなしくなること、そして何よりアンナ本人の口ぶりから推察するに、物理的な暴力を振るわれることもなくなったはずだ。


 お互いに愛し合っているカップルや夫婦からすれば、エストリエの存在は迷惑でしかないだろう。


 だが、アンナのような境遇の人々にとっては、救世主なのではないか。


「お願いします、王女様、勇者様! どうか、エストリエを殺さないでください……!」


 神妙な面持ちでそう言って、アンナは僕たちに向かい、深々と頭を下げる。


「大丈夫ですよ、アンナ。わたくしたちには、エストリエを殺すつもりなど毛頭ありません。むしろその逆で、彼女を救う方法を探しているところなのです」


「本当ですか!?」


 フレイヤさんの言葉にアンナは顔を上げ、喜びと驚きの入り混じった表情を浮かべた。


「はい」


 穏やかに微笑みながら、頷くフレイヤさん。


 一見すると一件落着のような雰囲気だが、僕は二人とも肝心なことを忘れているように思えてならなかった。


 そう。


 僕たちがゲルズさんの説得に成功し、彼女がゴッドランドの人々に性欲を返還した場合、アンナは再び父親から虐待を受ける羽目になってしまうのだ。


 似たような立場の少女は無数に存在しているであろうことを考えると、彼女だけを特別扱いするべきではないのかもしれない。


 だが、傷だらけの弱者を目の前にして、何もしないわけにもいかないだろう。


「フレイヤさん、一つ提案があるんですけど……」


 そう感じた僕は、相棒にアンナを保護するための手を打ってもらうことにした。


 すなわち、彼女を王女直属の侍女として、住み込みで召し抱えるという手を。

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