第36話 皇太子妃

 ゲルズ・スノリエッタ。


 それが、エストリエの本名らしい。


「お義姉ねえさま……ゲルズさまは公爵家の令嬢で、わたくしの兄、フレイの妻なのです。とても心優しいお方だったのですが、半年ほど前に失踪してしまい……」


 埠頭からほど近い、海が目の前に見える公園のベンチに腰掛けて、僕との「融合変身メタモルフュージョン」を解除したフレイヤさんは言った。


 公爵家の令嬢で、王子の妻――おそらく皇太子妃。


 古典的な果たし状を出すなど礼節を重んじていたことにも、王女のフレイヤさんと姉妹のように見えたことにも、仮面で素顔を隠していたことにも、納得が行く肩書きだ。


「それがいつの間にかエストリエと名乗り、人々の性欲を奪うようになっていた……と」


 僕が確認すると、フレイヤさんは頷いた。


「状況証拠的に、エストリエの正体はその人以外なさそうな気がするんですけど……ゴッドランドの人たちは、誰も気が付かなかったんですか?」


 ゲルズさんと親しかったのであろうフレイヤさんですら、つい最近――数日前までは、全く気が付いていない様子だったが。


「お義姉ねえさまは召喚魔法など使えなかったはずですし、髪の色も声も変わっていましたから……顔立ちはほぼ、そのままだったのですが……」


 元々使えなかった魔法が使えるようになり、顔立ちはあまり変わらないが、髪の色や声は大きく変化する。


「『融合変身メタモルフュージョン』……?」


 そう。


 それはまさに、僕たちが何度も行っている行為と、完全に合致する特徴を持っていた。


「まさか、そんなはずは……『融合変身メタモルフュージョン』は勇者の子孫と共に、『フュージョンクリスタル』を使わなければ行えないはずですから……」


「エストリエ……ゲルズさんに、僕とは別の勇者の子孫が手を貸している可能性は?」


 その者が彼女に魔王の肩書きを与えた、黒幕なのではないだろうか。


「その可能性は……低いでしょう。『フュージョンクリスタル』は一対しか存在しない上に、『融合変身メタモルフュージョン』によって使えるようになるのは白魔法のはずですが、お義姉ねえさまが使用していたのは黒魔法でしたから」


「でも、『融合変身メタモルフュージョン』そのものではなくても、それに近い現象が起きている可能性はあるんじゃないですか?」


「それは……あるかもしれません。断定はできませんが……」


 俯きながら、消え入るような声で答えるフレイヤさん。


 どうやら彼女にとって、エストリエの正体がゲルズさんだったことは、相当ショックなことだったらしい。


 四日前の時点である程度予測はできていたはずのことなのに、ここまで落ち込むとは。


 祖国を裏切った義姉ぎしに怒りを燃やし、死罪を主張されるよりはまだ良いが、こうして意気消沈している姿を見ていると、いたたまれない気持ちになってくるのも確かだ。


「……大丈夫ですよ」


 そう感じた僕は、フレイヤさんを質問攻めにするのをやめることにした。


「えっ……?」


「僕たちならきっと、ゲルズさんを助けられるはずですから」


 顔を上げるフレイヤさんの肩をそっと抱き寄せつつ、僕は言った。


 以前の僕であれば、こんな根拠のない慰めなど口にしなかっただろう。


 だが今は、具体的なプランなど何もなくとも、こうするべきだと感じたのだ。


 もしかしたら、自分が辛かった時、彼女が寄り添ってくれたことが影響しているのかもしれない。


「結人さま……ありがとうございます。ああ、あなたが勇者で良かった……」


 僕の肩に頭を預けながら答えるフレイヤさんの声には、まだ少しだけ不安が滲んでいたものの、先程よりはだいぶ和らいでいた。


「そう……ですか?」


 そのことには安堵しつつも、前回の戦闘の後に「勇者らしくない」と幻滅された僕は、少し困惑した。


「はい。もしあなたさまが信義公のように好戦的なお方であれば、わたくしはお義姉ねえさまをこの手にかけることになってしまっていたでしょうから……」


 自分がゲルズさんを殺すところを想像してしまったのだろう、フレイヤさんは手を小刻みに震わせながら言った。


 暴力によって敵対者を殺しさえすれば、物事が解決するとは限らない――


 そのことを彼女に説き聞かせる必要は、もうなさそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る