第3話 奪われたもの

「エストリエ……!」


 僕がフレイヤさんに続いて、声のしたほうを向くと、公園内の飲食店がテナントに入った大きめな平屋建ての建物――おそらく、標準的な一戸建ての住宅よりも一回りか二回りは大きいだろう――の上に、禍々しい形状の仮面を被った女性が立っていた。


 エストリエと呼ばれたその女性は、赤ワインで染めたかのような菖蒲あやめ色の見事な長髪と、漆黒のドレスが特徴的な、「闇」を具現化したかの如き存在で、髪も服も真っ白なフレイヤさんの近くに立っていると、対照的な印象を受ける。


 仮面を着用しているので当然、顔は見えないのだが、女性にしてはかなりの長身で、フレイヤさんと同じく、手足も細長い。


「知り合い……なんですか?」


「知り合いというか……彼女こそ、これからお話しようと思っていた、わたくしの国を襲った魔王なのです」


「魔王……」


 言われてみれば、エストリエさんの格好はいかにも「魔王」といった風情だが。


「はい。彼女は、ゴッドランドの民から大切なものを奪っていきました」


「大切なもの……?」


「大切なものだと? 笑わせるな。あのようなものは必要ない。だから奪ったのだ」


「必要のないものなどではありません! あれがなければ、ゴッドランドはいずれ滅びてしまいます……!」


「……いずれ?」


 フレイヤさんは「今すぐ」とは言わなかった。


 奪われてもすぐに深刻な問題が生じるわけではないが、長期的には国が滅びてしまうようなものとはなんだろう。


 人間は水がなければ三日間、食料がなければ三週間しか生きられない生き物なので、石油や石炭のような、インフラを動かすのに必要なエネルギー源だと考えるのが自然か。


 もっとも、異世界人とおぼしきゴッドランド人が、地球人と同じ生態だとは限らないわけだが。


「あのような国、滅びてしまったほうが良いのだ。苦痛を与えて殺さないだけ、良心的だと思ってほしい」


「なぜ、そのようなことを……!?」


「あの……すみません。エストリエさんは、ゴッドランドの人たちから何を奪ったんですか?」


 ヒートアップしていく二人の会話について行けず、僕はおずおずと手を挙げた。


「誰だ、お前は」


「えっと……勇者の子孫、らしいです」


「そうか……ならば、冥土の土産に教えておいてやろう」


「ちょ、ちょっと待ってください。さっき殺しはしないって言ってませんでした!?」


「基本的にはそのつもりだが、勇者の子孫だけは例外だ」


「ええ……」


 そんな理不尽な。


「私がゴッドランドの民から奪ったもの、それは……」


「性欲です」


 エストリエさん――いや、エストリエの言葉を遮って、フレイヤさんが言った。


「……性欲?」


「ああ」


「はい」


 首を傾げる僕に、エストリエとフレイヤさんが口々に答える。


「性欲って……あの性欲ですか?」


「そうだ」


「そうです」


 再び、口を揃える異世界(推定)の魔王(自称)と王女(こちらも自称)。


「その……エッチなことがしたいって気持ちのことですよね?」


「だから、そう言っているだろう」


 うんざりとした調子で、エストリエは僕の言葉に反応した。


 要するに、このままではゴッドランドには新生児が誕生せず、緩やかに滅びていくということか。


「な、なんで……そんなものを奪ったんですか?」


「言っただろう。必要のないものだからだ」


「…………」


 ダメだ、話にならない。


「他に質問はあるか?」


「いえ、特には……あっ」


 そういえば、一つ気になることがあった。


「フレイヤさんはめちゃくちゃ性欲強い感じがしたんですけど、王侯貴族の性欲は奪わなかったんですか……?」


「奪わなかったのではない。奪えなかったのだ」


「奪えなかった……?」


 身分の高い人間の住処は警備が厳重だったから、そこまで攻め込むことはできなかった、ということだろうか。


「ゴッドランド人という種族は通常、長命で性欲が希薄なので、それを奪うのは容易いことだった。ただ一人の例外を除いて、な」


「ただ一人の例外って……まさか」


「そうだ。今、お前の隣に立っている、その淫乱王女だ」


「きゃっ。褒められてしまいました」


「いや、褒めてはいないと思いますけど……」


 だが実際、エストリエの言葉には説得力があった。


 仮に彼女が魔法か何かで他人の性欲を奪えるのだとしても、風俗嬢でもないのに初対面の男にいきなりディープキスをするような女性のそれを奪い切るのは、そう簡単ではないはずだ。


「疑問は解けたか?」


「あっ、はい、一応」


 他にも色々と気になることはあるものの、とりあえず質問にはちゃんと答えてもらえた……と思う。


 しかし、敵の疑念が氷解したかどうかを気にするとは、律儀な魔王もいたものだ。


「そうか。では、そろそろ死んでもらおう」


 などと、呑気に感心していた僕に向かって、エストリエが右手を開くと、その手のひらにブラックホールを思わせる、ソフトボール大の黒いエネルギーの塊が現れた。


 そうだ。


 微妙に間の抜けたやり取りのせいで忘れかけていたが、この人は僕を殺そうとしているのだった。


 目の前の光景は相変わらず現実味に欠けるものだったが、僕の全身を駆け巡る恐怖心と焦燥感は、「これは夢ではない」と判断するには十分なものだった。


 こんなところで死ぬのか、僕は。


 大学に入ったばかりで、まだ何も成し遂げていないというのに――


「勇者さまっ!」


 エストリエがその手のひらからエネルギー弾を発射するのと、フレイヤさんが僕を庇うようにして躍り出たのは、ほとんど同時だった。


「フレイヤさん!?」


 そんな、名前も知らない僕の身代わりになって、攻撃を受けるだなんて――


 と、一昨年の冬に味わったものとは全く違う種類の苦い衝撃を感じる僕だったが、よく見るとフレイヤさんはバリアを展開し、エネルギー弾を受け止めていた。


 先程、地面に激突した時に無傷だったのも、このバリアのおかげだろうか。


「そういえば、お前は防御魔法が得意だったな……」


「なぜ、そのことを……?」


 僕がひとまず安堵していると、エストリエの言葉にフレイヤさんが困惑を示した。


 二人は一応、お互いに面識はあるようだが、少なくともフレイヤさんのほうは、エストリエのことをそれほど深く知っているわけではなさそうな様子だ。


「私の情報網を甘く見てもらっては困る。しかし……やはり、こちらの世界ではあまり力が出せないようだな」


「……それは、そちらも同じでしょう」


「そうだな。だが、私にはこういう手もある」


 と言って、エストリエは指をパチン、と鳴らした。


 次の瞬間、公園のベンチが闇のオーラに包まれ、彼女が乗っている建物と同じくらいのサイズに巨大化し――手足の生えた怪物と化す。


 なんだか、変身ヒロインアニメの敵幹部みたいなことをしているなあ――


「召喚魔法……!」


 などと、僕がまたしても悠長なことを考えていると、フレイヤさんが憔悴した様子で呟いた。


「そうだ。これなら、私の出力不足はあまり関係がない。もっとも、王都を襲った時のように、大量のゴーレムを召喚することはできないがな」


 そう言い残して、「この場はゴーレムに任せた」とばかりに、エストリエは跳躍して撤退していく。


「フレイヤさん、あのゴーレムは……」


「あれは、こちらの世界の物質を媒体として召喚されたものですから、今のわたくしの力だけで対抗するのは難しいです。そして……」


 ベンチお化け――もとい、ゴーレムが両手を開いた状態で天に掲げると、パニックに陥って逃げ惑っていた人々や、呑気にスマホで動画を撮っていた野次馬から、桃色のもやのようなものが漏れ出し、その手のひらに吸い込まれていった。


「これって、もしかして……」


「はい。やはり、エストリエはこちらの世界でも、人々から性欲を奪うつもりのようです」


「何のためにそんなことを……?」


「わかりません。ですが……今はまず、あのゴーレムをなんとかしなくては」


「それはそうですけど……でも、どうするんですか?」


 魔力によって召喚されたゴーレムって、警察や自衛隊にどうにかできるものなんだろうか。


 いや、どうにかできないからこそ、フレイヤさんは勇者の子孫を探していたと考えるのが妥当か。


「あなたさまとわたくしで、『融合変身メタモルフュージョン』を行います」


 と、フレイヤさんはどこからともなく黒い勾玉を取り出して、謎の言葉を口にした。

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