第六話 もう一人の桃太郎
「婆さんや、太郎を逃がしてしまった。」
息も絶え絶え、お爺さんは家へと帰ってきた。
「ああ、太郎や。」
お婆さんは声を震わせた。手を合わせ、涙を浮かべなから空へ祈っている。
「どうしてそんなことになってしまったんです。」
睨み付けるようにして、お婆さんが言う。
「純粋な子供の心は、腹黒い老人の心を見透かしていたのだろう。儂が、馬鹿じゃった。考えなしじゃった。太郎の魔力は、儂を遥かに上回っておったのじゃ。」
「もう一度探しに行く。鹿こそ失ったが、まだ仲間も餅も、山のようにある。嗚呼、もし彼が都に行ってしまったら。」
「…それでもまだ、太郎を殺すと言うのですか。」
お婆さんが詰め寄る。
「いや、殺しはせん。この際そんな悠長なことは言っとれん。というのは強がりじゃ。儂は、あの子に、儂と同じ思いをさせたくないと心から思ったのじゃ。儂にはあの子を守る義務がある。」
柔らかな朝日が、山々を照らした。
「おい、おい坊主、大丈夫か。」
優しく呼び掛ける声で、太郎は目を覚ました。
やけに腰の曲がった一人の老人が、太郎を見下ろしている。
「お主、桃太郎じゃろ。」
太郎は跳ね起きた。全身に緊張が走る。お供たちも目を覚まし、訝しげに相手の様子を伺っている。
「ほっほっほ。安心しろ。危害を加えるつもりはもとよりないぞ。」
老人は景気のよい豪快な笑い声を上げた。
「そんなところで寝ていると、風邪を引くぞ。儂の家に来い。案ずるな、誰もお前を恐れんよ。」
緊張が溶ける。心臓はまだ落ち着かない。
安心しても良さそうだ。
太郎は、彼についていくことにした。
十五分ほど歩くと大きな畑に囲まれた小さな一件家が姿を見せた。
「儂一人で住んでるんじゃ。ゆっくり休むといい。」
老人はそう言って笑った。
小さな家は、人間二人と獣四匹が入るとたちまちぎゅうぎゅうになってしまった。
太郎が口を開く。
「僕のことが、怖くないんですか。」
「老人になると、大抵のことは皆、笑い飛ばせるようになるんじゃ。」
髭を撫でながら老人が言う。
「……大きな村に行ったんです。みんな僕を恐れました。」
「ほう。それはきっと都のことじゃな。」
「と言うか、何で僕が桃太郎だって分かったんですか。ミヤコの人たちも、皆僕のことを知っているようでした。」
「ほう。お主、知らんのか。」
「…何を、ですか。」
「『桃太郎伝説』の伝承じゃよ。」
「『桃太郎…伝説……?』」
「知らずに都に行ったのか。鹿に乗って。人々が恐れるのも無理はないのお。」
「教えてください。『桃太郎伝説』。」
太郎は頭を下げた。自分の名を冠した伝承。気にならないわけがない。そこに人々が自分を恐れる理由があるのなら、なおさら。
「誰か、もっと早いうちに教えてやれるものはいなかったのじゃろうか。若い子がこんな辛い思いをする必要なんてどこにも無いと言うのに。」
老人は静かに呟く。
「良いじゃろう。ボケ老人の記憶じゃ。所々間違えるかもしれぬが、大目に見てくれ。」
目を瞑ると、老人は静かに語り始めた。
どんな話が始まるのだろう。太郎は全身を強ばらせた。
……それは、とても残酷で、とても悲しい話だった。
桃太郎 弐の巻 いと菜飯 @27days_ago
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