第五話 桃から生まれた少年
「すごい、まるでつむじ風のようだ。」
太郎を乗せた大鹿はものすごい速さで山道を走っていく。あっという間に二つほど山を越えてしまった。
「ちょっと止まって!」
今まさに三つ目の山の頂上を越えようとした時、突然太郎が叫んだ。
「あれ、何だろう。」
山の麓、平坦に広がった土地を、太郎は指差す。
「建物があんなにもたくさん。」
彼の指差す場所こそ、この国の中心、所謂、都であった。
「行ってみようよ。本当はお婆さんに挨拶だけでもしておきたかったけど、仕方ない。あそこなら何日か泊まれる場所がありそうだ。人もたくさんいる。」
こうして、一人の少年と大鹿、犬、猿、雉の珍道中は、山を降り、畑を飛び越え、大きな門を潜り、都へと足を踏み入れた。太郎の育った山村よりも、遥かに人が多い。彼の知らない世界がそこにあった。
「こんにちは。」
談笑する男女に太郎が声をかける。
空気が凍りついたのが分かった。
背筋がヒュッと冷える。何か、良からぬ予感がする。
二人の顔は、真っ青だ。女性の方が、甲高い悲鳴を上げた。男性は女性を庇うように立つ、が、その足は小刻みに震えている。
悲鳴を聞いて、辺りにいた人たちが振り返った。
悲鳴を上げる者、身構える者、目も口も丸くして逃げ出す者。
一刹那の間に、辺りはまさに地獄絵図、阿鼻叫喚の渦に包まれた。
「桃太郎だ。」
「子供の姿をしているぞ。」
「生まれ変わったんだ。帝に復讐するために。」
「都はもう終わりだ。」
「獣を連れている。巻物の通りだ。」
「伝承は、本当だったんだ。」
あ。
自分は、ここにいちゃ駄目なんだ。
桃から生まれるのは変なんだ。
獣を連れるのはおかしいことなんだ。
まだ幼い彼に、残酷な真実が牙を向く。
僕は英雄なんかじゃない。
桃太郎は、鹿に跨がると、お供を引き連れ都を飛び出た。彼の頬は涙に濡れていた。
それでも、夏の日差しは強く、強く彼に降り注いだ。
…………鹿を取られてしまった。
お爺さんはぽかんと口を開けながら空を見上げた。
あの鹿はお爺さんと数々の苦難を共にした相棒だった。心にぽっかりと大きな穴が空いてしまったように思われる。ぱたぱたと死んでいく年寄り仲間と違って、彼だけはずっと傍にいてくれると思っていたのに。
「甚八……」
弱々しい声でお爺さんは相棒の名前を呼んだ。
「…………田吾作、いや、藤吉郎じゃったっけか。」
とにかく落ち込んでばかりもいられない。儂は太郎の魔力を見くびっていた。自分の方が上だと、知らぬ間に錯覚していた。もし彼が餅を口にしていたら。考えるだけで恐ろしい。まずは、一刻も早く、彼を連れ戻さなければならぬ。
お爺さんは二度、大きく手を鳴らした。
木陰から音もなく飛び出したのは一匹の黒い狼。
「まずは村に戻るか。事態は予想以上に深刻じゃ。」
音もなく静かに二人の影が消えた。
木々は、何もなかったかのように静かに揺れ出した。
行く宛もなく、太郎たちは走り続けた。日の沈むよりも遥かに速く、彼らは幾つもの山と、村と、川を飛び越えていった。既に日は沈み、恋に溺れた蝉の声だけが響く。
「ごめん、疲れたろ。」
太郎が呟く。
大鹿はゆっくりと歩みを止めた。
「今日はもう寝よう。」
お供たちが頷く。
「外で寝るのには慣れてるんだ。きっと大丈夫。」
自分に言い聞かせるように、彼は言った。
誰もいない川のほとり、月明かりもない真っ暗闇の中、彼らは眠りに落ちていった。
蛍の光が曲線を描く。夜は静かに明日を待ち続けた。
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