《第2話》オイルショックと日本国改造の挫折

昭和のゆとり穏健派ツネオは公明党入りした後、日本列島全土と国全体の改造を宣言し政権交代を経て1972年(昭和47年)12月22日、首相に就任となった。

就任早々、昭和のゆとり穏健派ツネオは支持率急上昇で絶好調になり、新幹線・高速道路網の拡大と全ての陸路を新幹線・道路統一化するという無駄な政策を廃案し「都会と田舎を無くすには、国公事業の民間移譲と企業の地方移転が始まり」と主張し、政策変更を実現させた。

それだけでなく、日華平和条約を継続し日中友好を廃案にさせ、後に日本と世界を滅ぼす悪事に繋がる事を食い止め、独自路線を貫く北海道と沖縄の為に路線バスの通る一般道路と国民の日常を支える公共の在来線鉄道と経済界を支えたり災害時などの救世主となるべき存在である近距離航空網を守り、高速道路の必要性を一時見直し、東北・上越新幹線は計画通り東海道新幹線との直通化をそのまま実行、新幹線全体を担う私営企業を設立し完全独立、新青森までを基本計画路線に切り替え、残りの整備新幹線を全て白紙撤回するべく、首相としてやるべき事をやりこなしたのだった。

しかし1973年(昭和48年)10月、オイルショック発生により新幹線・高速道路整備の凍結もやむを得ず、全国各地に建設していた地方ローカル線の建設をそのまま工事続行と同時に沿線の向上も検討せざるを得なくなった。

そして1974年(昭和49年)12月9日昭和のゆとり穏健派ツネオは首相の職を退いて日本国有鉄道北海道総局に異動し、その直後に北海道に初の電車特急を始めると聞き、日本国有鉄道北海道総局に訪れた昭和のゆとり穏健派ツネオは、1975年(昭和50年)3月に配属する予定の485系1500番台が北海道の雪質など全体的に適するのか疑問を感じた。

そこで、冬季間は営業運転を休止し耐寒耐雪装備の試用を兼ねての試運転を小樽〜札幌〜旭川間で行うという案を出し、提言した昭和のゆとり穏健派ツネオも自ら試験運転に参加する事にしたのだった。

その後、1975年(昭和50年)11月3日で営業運転を一時休止し耐寒耐雪試験に入ったが冬季間の試運転中、絶縁・動作不良や再凍結によるトラブルが繰り返し発生、自ら参加していた昭和のゆとり穏健派ツネオは思い悩んだ。

電気機関車やディーゼル機関車による牽引で車両工場に送り込み、原因を調査した結果、使われている機器類や車両の仕様などがどう見ても酷寒地向けではなかった事が発覚、このまま営業運転に入るのは無謀だと日本国有鉄道に提言した。

その後、どの様なカタチで計画変更を余儀なくされるのか、闘いは続くのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る