番外編 マイ・ディア
第64話
月岡は、自分は冷静な方だと思う分、無感動に過ごしてきた自覚があった。
大学院までそつなく卒業し、仕事はアンダーグラウンドではあったが自身の感覚では順調で、さほど悩むことがない代わりに執着もしなかった。
けれど珈涼に出会ってからというもの、順調なことなど何一つない。
月岡は眠る珈涼の目じりにまだ涙の跡が残っているのに気づいて、そっとその頬に触れながらつぶやいた。
「どんな贈り物をしたなら……あなたは笑ってくれますか」
しんと静まり返った寝室に、その声は虚ろに響いた。
宝石、花、服に食事、年頃の女性が好みそうなものをいくつも贈ったが、珈涼が自分に打ち解けているかというとそうではない。
彼女は自分から贈られるものに、警戒しているのだ。それが彼女を抱くことと引き換えだと、身を固くしてしまう。
「……対価だと思ってしまうのですか、あなたは」
彼女の身を抱くのは、確かに月岡の暗い欲求を満たす。けれど月岡がもっと欲しいのは、触れがたいもの、形のない心。
夜が来るたびに彼女を掻き抱く自分が、心が欲しいのだと言っても説得力はないのかもしれない。
けれど……彼女が涙をにじませて眠るのを見るのは、心が痛い。
月岡は珈涼の頭を胸に抱いて、深く息をつく。
「詫びの言葉ならいくらでも。離せないのです、二度と」
たぶん今夜もよく眠れない。ただそんな夜でも、彼女のいない日々に比べればずっといい。そつなく、悩みなく過ごせた時などもう思い出せないのだから。
今はそんな過去はまぶたの裏に忘れて、珈涼の身を深く引き寄せた。
時が過ぎ、珈涼と心が通じ合った後も、日々悩みにぶつかった。
珈涼は体が弱く、ささいな風邪も引きずることがあって、彼女が熱を出すたびに月岡はその身を案じた。
病院のベッドに横たわった珈涼は、青白い顔をしながらも月岡を見上げて言う。
「私は大丈夫です、月岡さん。家に帰って……よく休んでください」
安心させようと笑った珈涼に、月岡は首を横に振る。
自分は冷静に見える方だと思っていた。けれど珈涼には、情けないくらいに動揺している内面が伝わってしまうようになっていた。
もしこのまま珈涼の熱が下がらなかったら、いつかのように血を吐き出すくらいの咳に苦しんだら……永遠に自分の手の届かないところに行ってしまったら?
珈涼に出会うまで、月岡は不安に襲われて夜眠れないことなどなかった。
けれど今の自分を疎む気持ちもない。月岡は珈涼の頬をそっと撫でて、無理に笑った。
「ここにいた方がよく眠れるんです。変かもしれませんが、それがあなたの恋人なんですよ」
珈涼と心が通じなかった頃の切なさは落ち着いたのに、悩みはむしろ増えたかもしれない。それでも珈涼と共に過ごせるのなら、悩みの数など構わないと思える。
「だから、珈涼さん。安心しておやすみなさい」
月岡は少しでも珈涼が気分よく眠れるようにと、彼女の額ににじんだ汗をハンカチで拭った。
それからまた時も過ぎて二人は結婚し、二人の間には三人の子どもも授かった。
ただ、上の二人は丈夫な一方、一番下の娘、
そろそろ一歳の唯は喘息で、一晩中咳をしていることがあった。ある夜も、珈涼は唯を抱き上げてその背中をさすっていた。
「ゆいちゃん、くるしいね……。ごめんね、ママ何にもできなくて……」
幼い唯に強い投薬は危険で、咳が出たらどうにもできないところがあった。それを側で慰める珈涼は、自分も子どもの頃同じ経験をした分、つらそうだった。
月岡は珈涼の体も心配だった。珈涼は入院するほどの不調はなくなったが、それでも幾晩も眠れなければ疲労は溜まる。
月岡は手を差し伸べて珈涼に言う。
「私が見ているから、珈涼は眠りなさい。珈涼が倒れてしまう」
「大丈夫、私が……。あなたは明日も早いでしょう?」
珈涼は子どもが出来て強くなったが、無理をすることも増えた。それを見ている月岡は、不安は減ったがもどかしさは増した。
月岡は首を横に振って言う。
「私と珈涼の子だよ。家族が無事なら、仕事はどっちでもいい」
かつての月岡は、執着こそなかったが仕事を第一にして生きてきた。それが今となっては、迷わず仕事を脇に置くくらいに人生観も変わった。
月岡は唯を抱いてあやしながら、ずいぶん変わった自分を自覚した。
翌日、月岡と珈涼は寝不足で迎えた朝だったが、息子たちはいつも通り大いに元気だった。
「ひろ兄、チェダーチーズじゃないよ。バゲットにはクリームチーズがベストなんだって!」
「そう? チェダーの良さがわからないなんて、涼真、まだまだだな」
大希と涼真は年子の兄弟で仲がとても良く、朝からわいのわいのと言い合っていた。
ただ二人は月岡が抱いてリビングに入ってきた唯を見るなり、心配そうに彼女をのぞき込んで言う。
「ゆいちゃん、大丈夫? 昨日いっぱい咳してた!」
「俺も聞こえた。親父、ゆいちゃん入院しちゃうの?」
おろおろする二人に、月岡は唯を下ろしてやりながら返す。
「病院に連れて行ってからだ。ほら、二人とも準備はできたか?」
朝の時間は慌ただしい。珈涼と二人で、二人の息子をせっつく。
「母さん、知ってる? ゆいちゃん、目の形が俺そっくりなんだ」
「違ぇって。俺の方がそっくりだよ」
「はいはい。どっちもお兄ちゃんなんだから似てるの。ちゃんと帽子かぶって」
息子たちの口は休まることを知らず、それの相手をする珈涼も忙しない。じっくり言葉をやり取りしている時間もない。
でもそんな日常のひとときの中で、月岡はふと珈涼の表情に見惚れていた。
珈涼はころころと声を上げて笑っていた。その屈託ない澄んだ目は少女のときと何も変わりがなく、今も月岡を魅了する。
珈涼は月岡を見上げて首を傾げる。月岡はそんな珈涼を見返しながら、心で思う。
……人生は愛おしいものだ。いつの間にか、願いが叶っていたのだから。
ふいに大希がはしゃいだ声を上げる。
「あ! ゆいちゃん歩いてる!」
皆の視線が唯に集中する。大希の言葉の通り、昨日までつかみ立ちしかできなかった唯は、テーブルから手を離して一生懸命歩いていた。
みんなでカメラを探して大騒ぎして、朝の時間はもうてんやわんやだった。
月岡も気づけば声を上げて笑っていて、そんな日常はずっと続いていくのだった。
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