番外編 独善の遺伝子

第63話

 月岡は自分が結婚式を迎えることに、これほど喜んでいる自分に驚いていた。 

 両親を見ていて結婚自体に夢がなかったし、結婚するとしても仕事の一環だろうと思っていた。

 けれど珈涼に出会って、そんな過去の自分を心底笑った。彼女だけと結婚したい、彼女の側にない人生はつまらないと思った。

 月岡はある日珈涼に、微笑みながら本音を告げた。

「珈涼さんがプロポーズを受けてくれなければ、私は一生結婚しなかったでしょうね」

 ……たぶんその場合、珈涼さんの下僕として過ごしましたよ。それが二番目に幸せでしたからね。

 さすがにその先の言葉は黙っておいたものの、珈涼の人生に影となって添って行けるなら、下僕のどこが悪い人生だろうかと思った。

 だから晴れて珈涼が結婚を受け入れてくれた今、柄でもなく気持ちが浮き立った。結婚式に元は何のこだわりもなかったのに、あれこれとプランを練った。

 二人は交際期間も同居期間も長い。でも今までは珈涼と月岡二人の関係だった。結婚式は、家族や組にも二人の関係を広げる。

 珈涼がこれから家族や組と心地よい関係を築いていけるように。そのために結婚式は大事な機会で、自分ができる努力は惜しまないつもりだった。

 その日は二人で、夜景の見える海辺のホテルに来ていた。月岡は、珈涼の気持ちをよく聞いておこうと優しく彼女にたずねる。

「家族だけの小さな式でも、思い出に残るような盛大な式でもいいですね。珈涼さんはどんな式にしたいですか?」

 月岡は珈涼の望んだ式なら、今まで入念に練ったプランを全部捨ててもいいと思っていた。資金は惜しまないし、義父に頭を下げるのも平気だった。

 けれど珈涼がふいに告げたのは、月岡には思いもよらない望みだった。

「私は……月岡さんのお母様をお招きできるなら、どんな式でもいいです」

 月岡は珍しく笑みを消して、彼らしくもなく言いよどんだ。

 珈涼はそんな月岡を見返して、そっと言葉を続ける。

「お父様は子どもの頃にお亡くなりになっていると聞いています。でも……」

 月岡は短く思案して、首を横に振る。

「……いいんです。珈涼さんに気にかけてもらうような両親ではありませんよ」

 月岡は淡く笑ってみせて言う。

「獄中で亡くなった父など、珈涼さんに会わせなくて正解だったと思います。私にもほとんど記憶がありませんし」

「そんなことないです。月岡さんのお父様なんですから。……せめてお墓参りをさせてもらえませんか?」

 珈涼が言葉をかけると、月岡はそれにも首を横に振る。

「龍守組が建ててくれた墓はあるのですが、中身が空なんです。荒らされたそうです。ずいぶん人に恨まれる仕事をしていたのでね」

「でも……」

 珈涼は沈痛な面持ちで黙ってしまった。月岡は珈涼の気持ちを曇らせたくなくて、珈涼をのぞきこみながら言う。

「珈涼さんが思いを留めてくれたことは、きっと父もあの世から見ていますよ。その気持ちだけで十分です。……母は」

 月岡は、今度は決まった話を告げる声音で淡々と言った。

「珈涼さんに害をなした、虎林組の姐ですから。招くわけにはいきません」

 珈涼は寂しそうに月岡に問いかける。

「妹さんも……瑠璃さんもですか?」

「はい。許してください。珈涼さんを守るためです」

 月岡の答えは淀みなく、珈涼は目に見えて哀しそうだった。

 月岡はそっと珈涼の頬に触れて、彼女の気持ちを曇らせたことを憂えた。

 母のことはもう心になく、珈涼を哀しませないために何をしたらいいか、そのことばかりを考えていた。



 三日後に商談で同じホテルを訪れたとき、月岡は久しぶりの顔を目にすることになった。

 ガタイのいい男が、すがるように女性に言う。

「姐さん、許してください。後生ですから」

 男が必死でついていったのは、ヒールを鳴らしながらロビーを歩く月岡の母だった。

 彼女は宝石と派手な毛皮のコートを豊満な体にまとい、とうに四十を過ぎた年齢には見えないほどの色香だった。彼女は立ち止まることなく側近らしい男を一瞥する。

 側近らしい男は、追いすがる男を乱暴につかむ。

「来い、姐さんのお食事の邪魔をするな」

 側近らしい男が男を排除していくのを、月岡の母は見送ることさえしなかった。

 しかし彼女は退屈そうにあくびをして……ふとそのとき、月岡を見た。

 月岡は一瞬、なぜだか彼女の半生を思い返した。

 かつては月岡の父の愛人に過ぎなかった少女は、その体だけで夜の世界の住民たちを次々と征服して、虎林組の組長も虜にした。

 夫は既に亡くなったが姐という立場は消えない。ただ彼女は組の経営にはまるで興味を持たず、財産を適当に食いつぶして退屈しのぎをしているそうだ。

 実の子の月岡を塵のように捨てた末に今の地位を得たのだと思うと、実に馬鹿馬鹿しい成り上がりぶりだ。

「……ふ」

 月岡は思わず鼻で笑う。珈涼には触れさせたくもない小物の母だが、その人生は小気味良い。わがままで、残酷で、それで自由だった。

 ……自分だって珈涼に出会わなければ、何を踏みにじっても平気だっただろう?

 彼女は別段何かの感情を持って月岡を見返したわけではなかった。彼女にしてみても、月岡は過去に置き去りにした遺物に過ぎないらしかった。

 だがお互いすれ違うとき、前を見たまなざしは同じだった。獲物を狙い、それを確実に仕留める。そういうところがよく似た母子だと言われたこともあった。

 月岡はもう通り過ぎた他人を心に留めることはなかった。

 ただ珈涼へのお土産に何を買っていこうか、それだけを考えていた。

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