番外編 君に嫌と言えないのは

第62話

 今夜も珈涼は長い電話をしている。

 その相手がいつも同じだとわかっているから、兄の真也はついに文句をつけることにした。

「お前、嫌なことは嫌って月岡にはっきり言った方がいいぞ」

 夏の盆休み、珈涼は龍守組の本家に帰ってきていた。

 電話だと席を立ってから真也のところに戻ってくるまで、もう三十分は経っている。珈涼をにらんで、真也は口を開いた。

 携帯電話を大切そうに手に包んでいる珈涼は、真也の言葉にきょとんと首を傾げる。

「兄さん?」

「毎日じゃないか。月岡に今日一日の報告電話。何のための盆休みかわからないだろ」

 真也はこの際言いたいことは言ってしまおうと、説教口調で続ける。

「子どもじゃないんだぞ、お前は。月岡の持ち物でもないし、いい様に扱われる愛人でもない。ましてもうすぐ夫婦になるんだから、お前の時間はお前のものだってちゃんと主張しろ。月岡に管理されるみたいに生活することになるぞ」

 真也は兄として真っ当な意見を言ったつもりだった。

 けれど見た目も気質も小動物のような妹は、細い声で答える。

「でも……そういうの、そんなに、嫌じゃないの」

「だめだ」

 真也は首を横に振って厳しく告げる。

「俺からも月岡に言っておく。じゃないと結婚なんて認めないからな」

「兄さん……」

 珈涼は困り果てて、兄に言葉がうまく返せなかった。

 いつものように盆休みが明ける前に月岡は迎えに来て、珈涼を強引にマンションに連れて帰ってしまった。

 月岡は背中で扉を閉じると、珈涼の首筋に顔を埋めながら言う。

「一週間も珈涼さんがいない日々は、毎度地獄のようですね。今日は何でもしますから、珈涼さんも一歩も外に出ないでください」

 珈涼はその言葉を聞いて、反射的に微笑みそうになってから慌てて顔を引き締めた。

「え、えと……」

「珈涼さん?」

 珈涼が振り向けば濡れたような目でみつめられていて、珈涼の腰に回った腕の力強さも意識してしまった。

 どきどきと胸が鳴っているのに気づかれないように、珈涼は目を逸らしながら言う。

「兄さんが、月岡さんに嫌なことは嫌って言わなきゃだめだって……」

「私とこうしているの、嫌ですか?」

 珈涼は口をむずつかせて迷うと、小声で答える。

「……こうされるの、うれしい」

 月岡は息をもらして笑うと、珈涼を抱き上げて器用に片方ずつ靴を脱がせる。

「あ」

「でも真也さんの心配もわかります。夕食の準備でもしながら聞きましょう」

 月岡は自身も靴を脱いで部屋に入ると、リビングまで珈涼を抱いていってソファーに座らせた。

 二人で料理ができるように、キッチンはだいぶ前から間取りを変えている。けれど今日の彼は珈涼に料理をさせるつもりはないらしい。月岡は一人キッチンに立って、リビングにいる珈涼と話をしながら料理を始めた。

「今までみたいに恋人同士でいるのと、夫婦になるのは確かに違いますから」

「そうでしょうけど……うるさく言って月岡さんに嫌われる方が、嫌なんです」

「珈涼さんは常々、もっとうるさくなってほしいと思いますが」

 月岡はフライパンに目を走らせながら、ちらと珈涼を見る。

「私は今更珈涼さんに嫌われても、絶対に珈涼さんを手放しませんよ。そういうところが一方的だと、真也さんは言いたいのでしょう」

 月岡はあらかじめ冷蔵庫に用意したらしい料理を確認してから、てきぱきとトングを扱ってサラダを作っていた。元々いろんなことを器用にこなす人だが、料理も動きに無駄がない。珈涼と話しながらでも、呼吸をするように料理をしてみせた。

 月岡は、珈涼では使いこなせないルッコラやケッパーもいつの間にか混ぜ込んでいる。珈涼は料理をする月岡を興味津々に目で追って、その手が魔法みたいに作るものを楽しみにしていた。

「とはいえ珈涼さんに愛されていた方が幸せなのは間違いない。嫌なところはなるべく直しますよ。何でも言ってみてください」

 珈涼は座ったままごはんを待っている自分に気づいて、ふいに子どもみたいだと思った。

「……月岡さんに直してほしいところ」

 珈涼は下を向いて、やがてぽつりと言う。

「私を子ども扱いするところ……」

「はい」

 月岡が料理の手を止めて顔を上げたところで、珈涼は首を横に振る。

「ううん。それもくすぐったい気持ちで、好きです」

「そうなると」

 月岡はカウンターの向こうで苦笑して、いたずらっぽく問いかける。

「私の、珈涼さんを何でも管理するようなところとか?」

「そのうち、ちゃんと嫌って言います……けど今はそれも、うれしい」

 珈涼は勇気を出したように顔を上げたが、結局そう言ってしまった。

「できましたよ」

 月岡はキッチンから出てきて食卓に皿を並べ始める。

 珈涼が大好きな、甘いチキンの照り焼きや冷たいかぼちゃのスープ、きらきらと手製のドレッシングがかかった野菜いっぱいのサラダがテーブルに置かれていって、珈涼はわくわくと目を輝かせる。

 でも月岡は食卓にすべて料理を並べ終わったところで、珈涼に歩み寄って言った。

「実は、珈涼さんが嫌と言うときもちゃんとあるんですけどね」

「え?」

「今すぐ言わせることもできますけど、どうします?」

 低めた声で耳元にささやかれて、珈涼はその意味を理解する。

 珈涼は熱くなった耳を押さえながら、慌てて首を横に振る。

「い、いや……。だめです! 夕食の時間なんですから」

 月岡は喉を鳴らして笑うと、珈涼の体に腕を回して付け加える。

「ほら、珈涼さんはちゃんと意見が言えます。だから私も、夫婦になったらもっと遠慮なくあなたを食べちゃいますからね……」

 珈涼を抱き上げて食卓に連れて行く月岡の声は、待ち遠しそうだった。

 もうじき夫婦になる二人の時間は、まだ始まったばかり。

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