番外編 オフの日の彼

第61話

 月岡と一緒に暮らし始めた頃、珈涼はどうにも彼の部屋に入るのはためらっていた。

 月岡に招き入れられたときは、少し別だ。夜、二人で秘密めいた時間を過ごすときは、朝まで……場合によっては昼まで出られないときだってある。

 でもそれ以外のときに、たとえば彼の仕事の書類を見てしまうと、月岡にも珈涼自身にもよくない気がしていた。

 そんなある日、月岡の部屋で夜を過ごしたあくる朝、彼は至極真剣につぶやいた。

「……もう朝ですか。珈涼さんをこの部屋から出さないようにするためには、ここに何を置けばいいでしょうね」

 珈涼はその言葉にどきっとして、目を逸らすつもりで辺りを見回した。

 そのとき初めて、明るくなった陽の光の中でまじまじと彼の部屋を眺めた。

 そこは広く、グレーを基調にした片付いた部屋で、仕事用と思われる机と椅子以外に目立った家具もなかった。本棚にもノートや本が詰まっていて、娯楽雑誌の類もない。

 でもよく見れば机の足元にスケッチブックが立てかけてあった。壁際のコルクボードには、えんぴつ書きの風景画が留めてある。

 珈涼はその手慣れたデッサンを見て声を上げる。

「月岡さん、絵を描かれるんですか?」

「ええ、時々……珍しいですか? あれが」

「上手です! スケッチブックを見てもいいですか?」

 珈涼はベッドを出ようとして、裸のままの自分に気づいて赤面した。

 月岡は苦笑すると、着衣を整えて先にベッドから出る。

「暇つぶし程度ですよ。私は本当に無趣味ですから」

 月岡はスケッチブックを手に取って珈涼に渡す。現れた絵たちは、月岡の言葉とは裏腹に、専門に学んだのではと思わせるほど流麗な筆運びだった。

 元々器用な人だと気づいていたけれど、芸術的に豊かな人だったんだ。そう、絵に見とれながら珈涼が思っていると、月岡は感心するように言った。

「私から見たら、珈涼さんこそ実に多趣味だと思います。お菓子を作ったり、いろんな雑誌を見たり、おしゃれをしたりして」

「でも私、文才とか画才は全然ないですから。すごい……」

「元はといえば」

 ふいに月岡は笑って、困ったように言う。

「珈涼さんを遠目に見て、手元に描いていたのが始まりです。そういう欲求の強い年頃でしたからね」

 それは見てみたいような……見ると怖いような。珈涼が言葉に詰まると、月岡はいたずらっぽく笑う。

「でも今は描くより、五感で焼き付けていますよ。絵よりもっと綺麗だと知ってしまいましたから。……眠る珈涼さんも、裸の珈涼さんも」

 珈涼は自分が裸だと思い出して、シーツの中に埋もれようとした。その珈涼の手を易々とつかんで、月岡はベッドに膝をつく。

「たぶん私は、年を取ったら珈涼さんの絵ばかり描いて過ごすんでしょう。……そのときが来るまで、連れ添ってくださいね」

 一瞬、遠い未来で、彼と彼の絵に囲まれて老いて過ごすのを想像する。

 でも次の瞬間、今日この部屋から出られるのはいつになるのかなと、珈涼は火照った頬をほころばせながら思ったのだった。

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