第58話
とっさに珈涼は扉を閉めて背中を当てていた。けれど薄い扉ごしに、月岡は言葉をかけてきた。
「ずいぶん探しました。何から逃げているのです?」
一瞬見えた月岡の格好は、この寒い地域には見慣れないくらい薄着だった。いつもきちんとしていた彼らしくもなく、普段着に慌てて上着を羽織っただけで高速を飛ばして来たようだった。
月岡は切羽詰まった声音で言葉を続ける。
「私から逃げているのだとしたら、謝罪も贖いもいたします。言ってください」
「月岡さん……」
「あなたが欲しいものは何でも手に入れます。でも私はあなたが欲しいと言ったはず。あなたのいない世界で生きていくなど、考えられないことなんです」
珈涼は乞うように告げられた言葉に胸がいっぱいになって、今すぐ扉を開いて彼を抱きしめたかった。
でもほんの一段玄関から上がったそこには、珈涼が命をかけても守りたい存在が眠っている。彼が奪われた世界で生きるのも、珈涼には考えられないことだった。
月岡は迷った珈涼が見えているように、心の芯を貫くような言葉を投げかけてくる。
「珈涼さん、怯えないで。こちらに来てくれたら、証明できます。私はあなたが何を隠していようと、あなたを包みますから」
珈涼は短い呼吸を繰り返す。珈涼の中の少女の心が揺れていた。
月岡に飼われるように大切に守られて過ごした日々と比べて、この数か月は過酷だった。お腹の中の子に悪いものは何でも遠ざけてきた。珈涼を助ける者は珈涼しかいなかった。自分の体でありながら自分のものだけではない体が倒れてしまわないよう、必死で毎日に立ち向かってきた。
それは確かに甘い日々ではない。でも……と、珈涼はふいに涙をこらえて叫ぶ。
「嫌! 放っておいてください! 私はひろきを離さない!」
扉の向こうで月岡が息を呑む気配がした。月岡は一瞬奇妙に沈黙して、ぐっと扉に力をこめる。
「……私より、あなたの背から出てこないような男の方がいいと言うんですか」
次の瞬間、月岡は扉の隙間から足を押し込んで、扉を無理やり開いた。
けれど珈涼は押しやられた扉のせいで数歩よろめいたものの、すぐに畳に駆け上って叫ぶ。
「だめ!」
ひろきを腕の中に入れて、珈涼は守るように彼を抱きしめる。
目を閉じる直前、月岡が大きく目を見開いたのが見えた。
「……子ども?」
月岡はぽつりとつぶやいて、珈涼の前で立ちすくんだ。
沈黙は一瞬で、ひろきが弾けるように泣き始める。
珈涼は慌てて、ひろきをあやしながら彼に言い聞かせる。
「ごめん、ひろき。怖かったね。泣かない、泣かない……」
珈涼がいくらあやしても、ひろきは泣き止まなかった。珈涼は自身も泣きそうになりながら声をかけ続ける。
「どうして? いつも大人しい子なのに……。ね、ひろき、ごめん。ママ、ここにいるよ。どこにもいかないよ……」
「珈涼さん」
ふいに月岡が珈涼の前で膝をついて、彼女を覗き込みながら言った。
「ひろきは私の子ですね」
それは問いかけではなく、事実の前で膝をつくような言葉だった。
珈涼は思わず顔を上げて月岡の表情を見る。そこに先ほどまでの焦りや怒りはどこにもなかった。
「だから……逃げたんですね」
彼はひろきをみつめて、何か大きな感情に向き合うようにため息をついた。
珈涼は彼の様子に喉を詰まらせて、泣き止まないひろきと月岡を見比べる。
側で見上げれば、月岡とひろきはとてもよく似ていた。ずっと必死だったから、その涼し気な目つきも、鼻や耳の形だって、月岡譲りだと気づかなかった。
「珈涼さんが誰にも何も言わずに姿を消した理由も、わかりました。でも」
月岡はひろきの額にそっと手を当てながらつぶやく。
「不破に聞いています。珈涼さんが私のお見舞いに来てくれたときのこと。……あれは、夢ではなかったんですね」
月岡がひろきの額に手を当てたとき、ひろきの泣き声が少し小さくなった。ひろきはまだよく見えない目で、誰かを探すように頭を動かす。
「貸してください」
月岡は腕を差しのべて珈涼に言う。珈涼は不思議な気持ちでそれに従った。
「……ひろき」
月岡は彼をそう呼んで、初めての仕草で、とても上手とは言えない手つきでひろきをあやした。
けれどひろきはそれで満足なようだった。珈涼がどんなにあやしても泣いていたのに、やがてぴたりと泣き止んで寝息を立て始めた。
ふいに月岡はぽろっと涙を一粒こぼすと、それを拭いながらぎこちなく笑う。
「私はね、小さい頃泣き虫だったんですよ」
月岡は濡れた目で珈涼を見て言う。
「でも珈涼さんに会ってからの涙は、幸せだから」
珈涼は短く呼吸を呑んで、ずっと不安だった心を言葉にする。
「……喜んでくれますか?」
珈涼は少女の心を打ち明けて月岡に問う。
「私とこの子は、あなたと一緒に過ごしていいですか?」
月岡は驚いたようにまばたきをして、珈涼をみつめる。
月岡はくしゃりと泣き笑いの顔になって、珈涼の頬に触れる。
「そんな幸せな男は、私くらいですね。……一緒に生きましょう」
珈涼もやっとこらえていた涙をあふれさせて、月岡とひろきを抱きしめた。
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