第57話

 珈涼は宿を転々として月日を過ごして、ついに小さな男の子を出産した。

 そこは古い宿場町の名残が残る地方病院だったが、設備は充実していて秘密も守られた。珈涼はそこを紹介してくれた院長に感謝しながら、眠る赤ちゃんをみつめていた。

 珈涼は彼の小さな手を包み込みながらささやく。

「私が守るから……何も心配しないで」

 赤ちゃんは元気に生まれたが、珈涼自身は体調が優れなかった。出血が多く、出産から三日間は昏々と眠った。

 目覚めた珈涼はひととき、奇跡のような幸せをみつめていた。自分と彼が結ばれて生まれた赤ちゃんは、どんな幸せをつかんでくれるだろう。そう思いを馳せながら、長い間赤ちゃんの手をさすっていた。

 けれど月岡に見つかったら、この子と離れ離れになってしまうかもしれない。側にいてほしい人を敵のように遠ざけ続けるのはつらい。

 それでも赤ちゃんを守るためには、自分は強くいなければいけない。早くここを離れようと、自分を奮い立たせる。

 まだ療養が必要と主張する医師を振り切って、珈涼は退院の手続きを取った。小さな宝物を守るように胸に庇いながら、雪がちらつく外気に踏み出した。

 けれど電車に乗って旅をする体力が残っていなかった。珈涼は駅から出ると、なるべく人目のつかない小さな宿を選んで、そこで一晩を過ごすことにした。

 そこは小さな貸宿の、二階の隅部屋だった。すぐに暖房をつけたが、雪深い地域に慣れない珈涼には震えるほど寒かった。

 窓の外を見ると、吹雪になっていた。きっと翌朝は鮮やかな雪景色になるのだろうが、今はただ早く部屋が暖まってくれるのを待った。

 珈涼は赤ちゃんが冷えないようにお包みごとしっかりと彼を抱くと、自分の温もりを分け与えながら話しかける。

「名前、どうしようね……」

 珈涼はいつか子どもが生まれたらどんな名前にするか、月岡と話し合ったことがあった。そのときの候補を思い出すと、夢見るような気持ちも思い出した。

 これも、それも、いいね……。二人で笑っていた頃を想いながらつぶやいて、ふいに一つの名前のところで止まる。

「ひろき……うん。ひろきにしよう」

 月岡の名前が彰大だから、彼から一文字もらおうと決めていた。珈涼は嬉しくなって、ひろき、ひろきと繰り返す。

 けれど雪の降る中を歩いて来たせいで、体力が失われていた。珈涼はそっと布団の上にひろきを寝かせてから、その隣で体を丸める。

「少し……休ませてね」

 起きたら役場に行って、それから……と、やることはたくさん思い浮かぶけれど、今は眠らせてほしい。

 珈涼は目を閉じて短い眠りに落ちたが、明け方に戸を叩く音で目を覚ました。

 まだ日も出ないこんな時間にやって来る誰かは、恐ろしい存在かもしれない。けれど雪の積もる中で宿を追い出されたら、ひろきが凍えてしまう。迷った末、珈涼は身を起こした。

 体は冷えてひどく重いが、傍らでひろきはすやすやと眠っていた。珈涼は彼に笑いかけて、すぐ側の扉の前に立つ。

「大丈夫よ。待っていてね、ひろき」

 振り向いてそう告げて、珈涼は慎重に扉を開いた。

「……「ひろき」は何者ですか、珈涼さん」

 そこに月岡が立っていて、珈涼は思わず扉の前で立ちすくんだ。

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