32 幸せ

第56話

 虎林組の本家が焼失した事件は、周辺の組だけでなく世間も騒がせることになった。

 元々麻薬を生業にしている虎林組は、警察からもたびたび捜査の対象になっていた。それが今回の事件を期に、龍守組にも飛び火したのだった。

 月岡も任意ではあるが取り調べに出頭する事態になり、その間珈涼は月岡が用意してくれた別荘に避難していた。

 虎林組は崩壊し、組員たちは離散した。けれど虎林組の焼け跡からは遺体はみつからなかった。火事の原因は今もわかっておらず、警察からは龍守組も疑われている。

 けれど月岡は、珈涼が引け目に感じることは何もないと言う。

「珈涼さんは立派に若頭の不在を守り抜きました。後は私に任せてください」

 一日に一度、月岡は珈涼に電話をして彼女を励ましてくれた。

 月岡はまだ治療が必要な身でありながら、自身が不在だった頃の混乱をあっという間に立て直してみせたと部下たちから聞いた。

 龍守組は月岡を中心に元通りに戻りつつあって、彼を若頭から外すなどという声は幻のように消えたという。

 月岡は珈涼と離れ離れの現在を、不本意そうに話す。

「今は私と離れて暮らす方が珈涼さんを守れますが、本当はすぐに側に連れ帰りたい。足らないものは何でも言ってください。すぐに届けさせます」

「大丈夫です。みなさん、とてもよくしてくれます」

 彼はこの世界で堂々と立ち回る力を持っている。彼はリーダーなのだ。珈涼は今もまぶしいような思いを彼に抱く。

 月岡は言葉が少ない珈涼に、優しい提案を持ち掛ける。

「落ち着いたら今度こそ結婚式を挙げましょう」

「だ、大丈夫です。今は結婚式どころじゃないです」

「だめですよ、大事な儀式なんですから。盛大にしましょう?」

 月岡にたしなめられて、珈涼はぽつりと答える。

「私は……教会で白いドレスを着れたら、それだけでいいです」

 けれど珈涼は日に日に返す言葉が減っていって、あるとき月岡にもその異変は伝わった。

 ある日、月岡は心配そうに電話で珈涼にたずねた。

「珈涼さん、家に閉じこもりがちだと聞きました。体調でも悪いのですか?」

 珈涼は六か月が過ぎる頃になっても、月岡に妊娠のことを伝えられずにいた。

 組の本家に乗り込んで銃まで突きつけたというのに、月岡の前では少女のような淡い気持ちの自分がいる。

 珈涼は電話口でうつむいて答える。

「……そんなことないです」

「部下たちもついているとはいえ、一人では気持ちも塞がるでしょう」

 彼が夢の中にいたときに授かった命を、あなたの子だと堂々と言えない。けれどその命を手放すなど、とてもできない。

 月岡は珈涼が何か隠しているのに気づいているのか、ふいに優しく言った。

「やっぱり明日にでもお迎えに行きます。何か気がかりがあるのでしょう? 珈涼さんが安心して暮らせるのが何よりですから」

 ……もし赤ちゃんが、月岡さんに否定されてしまったら?

 その不安は一瞬で波のように珈涼を飲みこんだ。

 珈涼を抱いたあの日のことを、月岡はおそらく覚えていない。違う男の子だと誤解されて、もしかして……堕胎をされてしまったら。

 嫌、そんなことできない。珈涼は悲鳴のように心で思う。

 珈涼はひとり腹部を押さえて、どうしたらこの子を守れるだろうと必死で考えを巡らせた。

 まだ妊娠のことは周囲に知られていない。けれど腹部のふくらみは服の工夫では隠せないほど大きくなりつつある。

 珈涼の出した結論は、きっと賢くはないものだった。けれど赤ちゃんへの愛情からの行動だったのは確かだった。

「ちょっと出かけます」

 別荘の部下にそれだけ告げて外出して、珈涼は行方知らずになった。

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