第49話

 珈涼は月岡の部下たちに、月岡を名乗る者から命令が下ったら必ず自分に報告をしてくれるように頼んだ。

 彼らはずっと守られてきた「お嬢さん」だった珈涼がそんなことを言い出したことに驚いたようだった。けれど事はボスの信用にかかわることで、混乱を食い止めるにはそれなりの立場からの命令が必要だった。

 月岡の部下から報告をもらったら、珈涼は偽物の命令を打ち消す命令を部下に告げた。

 争えと命じられたら、それを止める命令を。誰かを傷つける命令があれば、誰かを守るように指示した。

「猫元さんのところに人をやって未然に防いでください。刀傷沙汰は許しません」

 さすがに珈涼自身が争いの場に立ち入ることは月岡の部下たちが許さなかったが、それでも珈涼は使ったことがない強い言葉で偽物の命令を否定した。

 ほとんどの部下は下って来る命令を偽物のものだと確信していたが、珈涼の命令には疑問を抱く部下もいた。

「猫元組は龍守組の傘下ではありません。今回の件もある。むやみに庇うのも」

「月岡さんならそうするはずです。私の命令通りにしてください」

 一つ間違えば闘争になると思うと、緊張で夜も眠れないこともあった。

 もう一つの反対は、父の妻であり本来の姐から来た。

 彼女は珈涼を呼び出して、明らかに不快という顔で告げた。

「自分が何をしているかわかっているの?」

 姐は月岡が若頭を襲名することに反対していた。珈涼自身も夫が外で作った愛人の子なのだから、存在そのものが目障りに違いなかった。

 珈涼は姐に頭を下げて謝罪する。

「お詫びは今も、これからも、いくらでも。私をいくら疎んでも構いません。姐さんに比べれば、この世界では子どものような私ですから」

 珈涼は毅然と顔を上げて姐に返す。

「けれど月岡さんの部下のことは、私はよく知っているんです。彼らを使うことなら多少の慣れがあります。今は私の夫となる人と……龍守組のために、命令を下すことをお許しください」

 姐は話のわからない人ではなく、珈涼の言葉を最初から切り捨てることはしなかった。

 ただし姐らしく強気で、短く珈涼に念を押した。

「ならば相応の成果を出しなさい。……過ちには、私は厳しいわ」

 珈涼はごくりと息を呑みながら、深く一礼してその言葉を聞いていた。

 珈涼がミスをしたのは、月岡が行方不明になってから二月が経つ頃だった。

 その頃には偽物は月岡らしさを装うこともなく、支離滅裂な命令ばかり下すようになっていた。月岡の部下たちに限らず、龍守組のほとんどの組員たちがその命令に従わなくなっていた。

 月岡の命令を誰も聞くことがない。それが偽物の真の狙いだったと珈涼が気づいたのは、龍守組の本家の中で月岡をあざ笑う声を聞いたときだった。

「月岡はもうおしまいだな。親父は誰を次の若頭に指名するか……」

「本家に住んでもいない親父がもう一度指名できるか? 姐さんが決めるんだろ」

 珈涼は物陰でその話し声を聞いたとき、後悔に襲われてうつむいた。

 自分は偽物の命令を打ち消すことばかり考えて、月岡の名前で下される命令を否定ばかりしてきた。メンツを最重要視するこの世界で、月岡のメンツを珈涼自身が台無しにしてしまった。

 寒気を感じて、ひとりで久しぶりにマンションに戻った。ベッドまで来ると、倒れるように眠った。

 この二月間、緊張と不安でいつもギリギリの最中にいた。月岡を探しに行きたいのに、今自分が動いては偽物を止められないと、自分を抑えてきた。

 月岡と眠ったときは安らぎの場所だったベッドは、今は冷たく、ほこりもかかっていた。珈涼は咳き込んだが、彼の名残を求めるようにしてシーツを引き寄せる。

 夢でも会いたい人は、そういうときほど夢には出てきてくれなかった。珈涼は寒気と喘息の発作で、身動きも取れなかった。

 ……そのとき、夢の底で小さなぬくもりに触れた。

 そのぬくもりは本当に小さく、消えそうな灯のように頼りなかった。けれど珈涼はそれを大切に抱きしめて、大丈夫だよと励ましていた。

 泣きたいような気持ちで目覚めて、珈涼はまだ熱の残る体で寝室を横切る。

 棚を開けて取り出したのは、いつか月岡が珈涼に買ってくれた検査キットだった。

――不安なときは使ってください。それでもし何かあっても、すぐに医者にかかれば大丈夫ですから。

 珈涼はそれを手に取って、そっと箱を開く。

 珈涼はもう二月、生理が来ていなかった。だからもしかしたらと思った。

 果たして結果を見て……珈涼はぽつりとつぶやく。

「……私が守らなきゃ」

 検査の結果は、陽性。

 珈涼のお腹に、あの日の月岡との赤ちゃんが宿っていた。

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