第37話

 午後から、珈涼は白鳥組の事務所へ向かった。

 大学に入ってまもない頃から、珈涼はここでバイトをしている。掃除をしたりデータ入力をしたり、仕事内容は普通で荒いものではない。

 不破が若頭補佐を務めるこの組は、本業が金貸し業のためにやくざな面もある。けれど月岡が珈涼のバイトを認めるくらいには、温厚な組員たちで守られていた。

「……また虎林組の連中か」

「うちの坊ちゃんは争い事を嫌われるからなぁ……」

 ただ荒っぽい客に給仕したり、危うい会話の一部を聞くことはあって、今でも時々びくりとすることはある。

 組員たちの会話の中に虎林組が出てくるのは、もう何回目になっただろう。珈涼はその中心に今も立っている瑠璃のことが心配だった。

「噂は本当かもな。虎林組の中身はもうガタガタだって」

 物陰で立ちすくんだ珈涼の横から、ふいに歩み出した影があった。

 珈涼と同じく白鳥組でバイトしている豆子は、モップをトンと立てて組員たちに言葉を放つ。

「さぼらなーい! うちの組は商売で立ってるんだから、ぐずぐず言わずに稼ぐ!」

 豆子に叱られた組員たちは、肩を丸めて恐る恐る返す。

「ね、姉さん」

「わかってますよ、働きますって。モップ向けるのやめてください」

 豆子は正確には若頭補佐の恋人だが、今や組員たちに「姉さん」と呼ばれて慕われていた。

 豆子はおおらかに笑って、いい?と首を傾げる。

「うちは立派な若頭がいらっしゃるし、不破も全力であんたたちを守る。安心して今日も行ってらっしゃい」

 組員たちはほっとした様子で笑い返すと、外回りに出て行った。

 珈涼は、こういうところが豆子にまったく敵わないと思う。珈涼は、人を安心させる光をまとう豆子のことを尊敬していた。

 豆子は珈涼に向き直ると、珈涼の顔をのぞきこんで言う。

「組の話は不破がどうにかする。それよりあたしたち、明日は卒業式だよ」

 豆子は猛勉強して珈涼と一緒の大学に入って、四年間机を並べてきた。

 珈涼はうなずいて豆子にたずねる。

「うん。写真、一緒に撮ってくれる?」

「もっちろん!」

 すっかり親友同士になった二人で迎えられる明日を、珈涼も楽しみにしている。

 豆子はふいに辺りを見回して、声をひそめて言う。

「ね、まだ誰にも言ってないこと、聞いてくれる?」

「なぁに?」

 珈涼が豆子に近づいて問いかけると、豆子ははにかむような声で言った。

「……あたし、赤ちゃんができた」

 珈涼は跳ねるように顔を上げて、みるみるうちに笑顔になった。

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