番外編 本音

第34話

 ある日月岡がマンションに帰ると、珈涼はオフィスで着るような夏用のカッターシャツにアイロンをかけていた。

 珈涼は普段着ではブラウスと淡い色のスカートを好む。オフィシャルな格好は大学の入学式のときに買った黒いスーツだけで足りていて、夏用のシャツは持っていなかった。

「大学の授業ですか? 言ってくださればいくらでも私が用意しましたのに」

 月岡はそう言ってから、度を越していないかふと自分を顧みた。

 一度珈涼のバイトを無理やりやめさせてしまった自分だ。珈涼は半年前から喫茶店のバイトを再開したとはいえ、やめさせたのは少しやりすぎたと思った。

 珈涼のすべてを管理したい自分がいて、自分がいなければ彼女が生きていけないならたまらなく満足だった。だから珈涼自身が金など稼げなくても、いっそ体が弱くて世話が必要でも、二度と珈涼と離れたくなかった。

 珈涼が月岡の顔色をうかがう気配がした。そういう気遣いを自分にしてほしいわけじゃない。月岡は表情を和らげて、シャツを手元に引き寄せた珈涼の手をその上から包み込んだ。

「一緒に選んだり、お手伝いできたらと思っただけです。ちょっとした嫉妬ですよ」

 珈涼はその言葉に安心したようにうなずいて、月岡もひとまずそれ以上は何も言わなかった。

 けれど珈涼の変化は他にも続いた。就活に使うようなマナー本が本棚に増えて、元々少し癖のあった髪は綺麗に梳いて、ますます禁欲的になっていった。

 月岡は珈涼が大学に通うのを手助けしているし、彼女が社会に出るのも悪いことではないと思っている。……彼女という存在を自分の腕の中に隠しておけたらと夢想することがあるだけだ。

 ただ自分が欲望に忠実な男であるのは自覚していて、部下に命じて珈涼の身の回りのことを少し調べた。

 就活はしていないようだが、何かあるようだ。そう確信を抱いた頃、友人の不破の事務所で会合があった。

 月岡はその中心で、いつものように仕事をしていた。

「理由を聞かせてもらおうか。私にも納得のいく説明でな」

 この一帯を仕切る若頭として眼光鋭く言葉を投げるのは、月岡にとって当然のことだった。

 そんな折、ふと隣の席の不破が耳打ちする。

 何気なく振り向いたそのとき、自分の手元にコーヒーを置いた珈涼と目が合った。

 真っ白なシャツと黒いタイトスカート、アクセサリも何もないただそれだけの地味な格好だった。

 でも仕事中に出会うはずがない彼女がそこにいると思っただけで、不意に気持ちは上擦った。

「……不破! 珈涼さんに何をさせてる!」

 月岡は、次の瞬間には不破の胸倉をつかんで怒声を響かせていた。

 びくりとしたのは珈涼と周囲の部下たちで、掴まれた不破は平然と言い返してみせた。

「バイトです。得意なことをやってもらってます」

 いくらプライベートでは友人でも、立場として不破は弱小の組の若頭補佐だ。公の場ではまったく不破は月岡に逆らえない。

 何より珈涼が、普段耳にしない月岡の怒声に怯えている。そのことに気づいて、月岡は不破の胸倉から手を離した。

 月岡は深く息をついて、声のトーンを落として言う。

「珈涼さん、車で待っていてください。すぐに行きます」

 珈涼は頭を下げて出て行ったが、月岡は盗み見るように彼女を目で追っていた。

 慌ただしく会合を終えて家に着くと、月岡はソファーに珈涼を座らせて自分はその横に腰を下ろした。

「隠れてバイトをしていた理由は察しがついています。私に怒られると思ったんですね」

「……はい」

 珈涼はこくんと素直にうなずいて、月岡は淡々と続ける。

「珈涼さんに怒ってはいませんよ。ただ不破の事務所はああ見えて同業者ですから、危険なこともあって」

 月岡は少し考えてなお言う。

「だからこそそういった業界を知るために、珈涼さんが選んだのかもしれませんが……」

 今度は、珈涼は沈黙で同意した。月岡は珈涼に怒りたくはなく、かといってこのままでいいとも思わなかった。

「……月岡さんのいるところに行きたいんです」

 珈涼はふいにぽつりと言う。月岡は珈涼がうつむかずに自分を見返した、その目に気づいた。

「危ないところだと聞いています。でもちょっとずつ慣れないと。端っこでもいいから、同じところにいないと」

 珈涼の拙い言葉には意思がこもっていて、月岡はそこに今までの珈涼とは違う力を見ていた。

「私はまだ……月岡さんがどんな女性が好みかも、知らないですから」

 もどかしそうに口の端を下げた珈涼に、月岡は思わず笑いだしていた。

 くすくすと声を立てる月岡に、珈涼は慌てて言う。

「わ、笑わないでください! 本当に知らないんです。月岡さんは大人で、ずっと私は手の中にいるみたいで」

「知りたいですか、私の本音」

 月岡はふいに珈涼の頬を両手で包んで言う。

「聞いたら後悔しますよ。たとえば……私の理想は珈涼さんの裸の姿だとか」

 珈涼はその言葉に顔を赤くして目を逸らそうとする。けれど頬を挟んで顔を覗き込んだ月岡から目を逸らすことはできなくて、月岡の手にもその熱は伝わった。

「何を持っているかとか、どんな服を着ているかとか、実はあんまりこだわっていないんです。私が着せた服は、最初から脱がすことしか考えていませんしね」

「つ、月岡さん」

「でもね、珈涼さんが私のために着てくれた服には興味があるんです」

 月岡は珈涼のカッターシャツとタイトスカート姿を見下ろして目を細める。

「素敵です。心臓に悪い。誘われているのかと思ってしまいました」

 珈涼に獲物を狙う目を向けてしまう前に、月岡は彼女を胸に引き寄せてぽんと頭を叩いた。

 月岡は苦い声音で言った。

「わかっています。私が珈涼さんに来てほしくなくても、たぶんこっちに来てしまうんでしょう?」

 月岡は声を低めて珈涼の頭に口づけた。

「困ったな。悪い子だ」

 この思うままにならない少女と、心臓のように離れがたい自分は自覚済みだ。

 月岡は彼女の背を抱きながら、どこから自分という人間を明かしていこうかと苦笑していた。

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