番外編 エゴイスト

第32話

 ある夏の夕べ、月岡はマンションに帰ってすぐ珈涼の様子が変だと気づいた。

 明らかに泣いた後という顔に、どう聞き出そうかと思案する。

 珈涼はほとんどの場合、何でもないですと答えてしまう。でもそういう珈涼がどういうときに心を解くかは、少しわかってきていた。

「つ、月岡さん?」

 月岡は当然、放っておくつもりもない。食事の準備をしに台所に立った珈涼を後ろから抱きしめて、うろたえる珈涼に言った。

「知ってました? 私は人が思うより動物的な人間なんですよ」

 月岡は珈涼の首筋に顔を埋めて、その体温や匂いがいつもと変わりないのを確かめる。

 香りにアレルギーがある珈涼は、洗剤やシャンプーも無香のものを使う。でも少し低い体温の肌に、本人も気づかないような甘い匂いをまとうから不思議だ。

 そもそもの目的を忘れてしまいそうだなと思う。でもせっかく彼女が作ってくれた食事だって逃したくはない。

 月岡は欲深な自分に苦笑して、腕の中から珈涼を解放する。

「私が運びますよ。待っていてください」

 踵を返して食器を出しながら、月岡は考えをめぐらせた。

 食卓について何気ないことを話しているうちに、珈涼が泣いた原因は当てがついていた。

「珈涼さんは、いつも玲子さんの味方をしていていいんですよ」

 食事を終えた後、月岡はふいに切り出す。

 珈涼はごくんと喉を鳴らして、また泣きそうな顔になってうつむいた。

「どうして月岡さんにはわかるんですか?」

 それはまあ、あなたが子どもの頃からみつめてきたから。そう言うとストーカーじみた自分の過去を話さなければいけないので、月岡は苦笑でごまかした。

「珈涼さんが泣く原因は、ほとんど親父さんと玲子さんの喧嘩のせいですからね」

 月岡は珈涼の隣に席を移して、彼女の肩に触れて言う。

「ごめんなさいね。私たち極道はメンツのために無理を押し通しますから。エゴイストばかりの集団なんですよ」

 月岡は口の端を下げて付け加える。

「でも親父さんと玲子さんは、喧嘩できる方がまだいいんです。前は、親父さんは玲子さんに言うまでもなく勝手に決めていましたからね。一緒に暮らし始めて、一応相談はされるようになったんでしょう」

「……私」

 珈涼は言いよどんで、ぽつりと告げる。

「お父さんが怒る理由がわからないんです……。私が車の免許を取るのは、そんなにいけないことでしょうか」

「免許……ですか」

 月岡は一瞬黙りこくって、困ったように眉を寄せる。

「それは確かに私も反対しますね」

「月岡さん?」

 不思議そうにたずねた珈涼に、月岡はどう説明しようか考えた。

 月岡は彼女を怖がらせないよう、優しい声音で諭す。

「珈涼さんは龍守組のご令嬢、いわばお姫様です。運転手のついた車に乗るのが当然で、珈涼さんが運転するなんてメンツが許さないでしょう」

 珈涼の瞳が揺れたのを見て取って、月岡はぽんぽんと安心させるように彼女の肩を叩いた。

「……というのが親父さんの言い分でしょう。私が反対するのは、単に珈涼さんを籠の中に入れるように守っていたいからです」

 月岡はうなずいて言葉を続ける。

「でも、そうですね。安全面なら、いくらでも手の打ちようがある」

「月岡さんのメンツを汚してしまいませんか?」

 珈涼が不安そうにたずねると、月岡は微笑んで首を横に振った。

「私は珈涼さんに対しては、メンツなんてどうでもいいですから。いつか言ったでしょう? 私は下僕でいいですと。珈涼さんが笑って過ごす方が大事で、珈涼さんはいくらでも私のツラを汚して構いません」

 月岡は安心させるように珈涼を見返して言った。

「大丈夫、私にお任せください。親父さんを説得してみせますよ」

 月岡は珈涼の父も恐れる微笑を浮かべて、甘く珈涼にささやいた。





 三日後の日曜日、月岡は朝食の席で珈涼に告げた。

「親父さんは珈涼さんが免許を取るのを認めてくれましたよ」

 珈涼は息を呑んで、驚きながら問いかけた。

「あ、ありがとうございます! でもどうやって……?」

 月岡は事も無げに珈涼に答える。

「親父さんは、安全な車に乗るならいいと。だから免許を取ったら、私と一緒に車を選びに行きましょう」

「よかった……」

 珈涼は頬をほころばせて喜んでいて、月岡はそれが何よりの報酬と思う。

 珈涼はまだ、月岡がいくつも用意している並みの黒塗り車より安全な高級車のことを知らない。

 それから、「私のオンナのことに口出しするんですか?」と珈涼の父に微笑みながら凄んだことも、言う必要はない。

「月岡さん?」

 彼女が笑ってくれるなら何でも踏みつぶす、エゴの塊のような人間が自分なのだから。

 月岡は珈涼に笑いかけて言う。

「新しい楽しみが増えますね、珈涼さん」

「はい!」

 嬉しそうな珈涼に満足げにうなずいて、月岡は朝のコーヒーに口をつけた。

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