番外編 罪のかたち

第31話

 月岡が二十代の半ばの頃、姐に言われたことがある。

 あなたは極道には向かないわ。ずいぶん世話になった姐に突き放すように言われたのに、月岡は何の感慨も持てなかった。

 組のために尽くして早くに獄中で亡くなった彼の父に詫びるように、月岡は龍守組の本家で育てられたきた。月岡は龍守組の子息である、真也の世話係も務めた。

 けれど月岡は組の仕事にはさほど熱がなく、さっさと自分で奨学金を取って大学院への進学を決めた。

 その頃、世話になった組長にも姐に似た調子で言われた。

 お前は飛びぬけて優秀で頭も切れるが、上を目指す我欲に欠ける。組長は子息の補佐を務めてほしいと言いながら、月岡の組への無関心には気づいていた。

 月岡が望んでリスクを取る性格ではなく、大学院を卒業したら組系列からは離脱するつもりでいるのを見抜いていたようだった。

 月岡は定期的に一緒に飲む友人に、軽い調子でなだめられた。

「いいじゃねぇか。あっちから手を切ってくれるっていうんだ。そうしろよ」

「恩義に捕まってるお前に言われたくないな、不破」

 友人の不破は、既に世話になった組の事務所への就職を決めていた。

 月岡はむしろ友人の選択の方が意外で、ウイスキーを片手に頬杖をつく。

「お前は気が優しく極力暴力沙汰を嫌う男で、お前こそ極道に向かないだろうに」

「まあそうだけどよ」

 不破は月岡の言葉にうなずきながら、案外真剣に言い返した。

「俺は義理に勝てねぇんだよな。お世話した若の先行きが気になってしょうがねぇんだ」

 不破も白鳥組という組の子息の世話係を務めた男で、そういう意味では月岡とよく立場が似ていた。

 不破は薄いビールでも美味しそうに飲みながら言う。

「お前の、この業界の大概のことを何とも思わねぇとこは尊敬する。つまりお前は全然根が生えてねぇだろ。明日にでも組を裏切りそうな奴に任せていいのかって、姐さんは思ったんじゃねぇか」

「なるほど。一理ある」

 姐の肩を持った不破に月岡も同意した。

 言われてみれば自分は、龍守組に執着するものを何も持っていない。世話をした坊ちゃんだってもう手を離していて、今更その未来に思いを馳せたりしていない。

 不破はふと苦笑してからかうように言う。

「……組に好きな女でもいるなら別だけどよ」

 月岡はそれは無いと返事をしようとして、体の奥に蘇るものを感じた。

 火がついたような熱を感じた瞬間。好意などという甘い名前ではなく、もっと体の芯を貫くような感情を思い出した。

 月岡はその熱を封じるように、珍しく軽口を叩く。

「お前は女に全部持っていかれそうだがな」

 けれど月岡は誰にも話せない自分だけの秘密を、友人の不破にだって明かすつもりはなかった。

 月岡の内心を知ってか知らずか、不破は冗談めいた調子で言った。

「わからねぇぞ。お前みたいな奴の方が危ねぇんだ」

 その不破の言葉を本気にしたわけではなかったが、月岡には組を抜ける前に一つだけ確かめたいことがあった。

 組長には愛人との間に娘が一人いる。月岡は子どもの頃、一回だけ彼女に会ったことがあった。

 そのときの感情は、確かに傷のように月岡の中に刻まれている。いくら子どもの頃のこととはいえ、彼女の前で取り乱した自分は消えない過去だ。

 ところが先日坊ちゃんが、彼女が中学に入学したときの写真を持っていると知った。

 月岡はそれを盗み見て……自分でもおかしいと思うくらい、我を忘れてみつめてしまった。

 珈涼という名前の彼女は、華奢な手足と色白さが目を引いて、思い出の中より一層妖しく、美しく成長していた。

 この年なのだ、女と付き合ったことくらいある。まさか幼女の写真を集める趣味もない。自分より一回りも年下の少女に見とれるはずもないのに、目が離せなかった。

 反射的に自分に言い聞かせた。たぶん母親である玲子がはっとするような美人で、密かに憧れていた頃があったからだ。彼女も今は少し年を取ったはずで、もう一度会えば失望するだろう。

 夏の終わり、月岡は玲子が経営する喫茶店を訪ねた。ひぐらしが鳴いていて、暑さの静まる夕暮れ時のことだった。

 コーヒーでも一杯飲んで、一言二言あいさつをして帰る。ただそれだけのつもりで、財布だけを持った気楽な格好だった。

 けれど店には「休憩中」の札がかかっていて、それにほっとした自分に気づく前に、店の裏の物音に気を引かれた。

 喫茶店の裏口の方で、水音が聞こえていた。今日はこの夏一番の暑い日だった。誰かが水を撒いて暑さをまぎらわしているらしかった。

 路地を水が流れる音の中、鈴を転がすような笑い声が重なっていた。月岡は吸い寄せられるようにそちらに足を向けて、そこで写真の少女を見た。

 母と二人で小さなビニールプールを出して、彼女はそれに足をつけて遊んでいた。きゃっきゃと小さな子どものようにはしゃいで、明るい笑い声を立てていた。写真に見た陰の魅力とは違う、屈託のない素朴な表情だった。

 ……けれどそれを見て月岡の中に、ぞくっとするような青い欲の火が灯った。

 その濡れた白い足を曲げて自分の下に組み敷きたい。安心したように母に向ける無邪気な目が、甘い感覚にのぼせるところを見てみたい。

 どうしたら手に入る? あの少女のすべてを自分のものにするには、どうしたら一番早く、確実だろう?

 今まで動かなかった心の部分が急速に動き出して、しかもそれは止まらなかった。龍守組への帰路についたときには、引き返せない欲望を体いっぱいに抱えていた。

 抱くよりもっと直接的に彼女とつながりたかった。結婚、そんな儚いものでは満足できなかった。

 たとえるなら底なし沼に沈んで出てこられなくなるような、そんな最中に彼女と至りたい。

「珈涼さん……だったな」

 月岡はふと笑って、彼女の名前を口の中で転がす。

 暗がりに向けた目は我欲に尖り、これから自分が成す未来を心から喜んでいた。

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