21 たぐり寄せた願い

第25話

 虎林組の屋敷で料理をしていて繰り返し珈涼が頭に思い描いたのは、月岡のことだった。

 珈涼はまだ月岡に料理を作ったことがない。いつもマンションのコックが作ってくれる料理を、月岡と二人で食べていた。

 料理はプロが作っているものだから、もちろん珈涼が作るものよりおいしい。それに逐一珈涼の体調や好みを確認して作られたものに、珈涼だって異を唱えなかった。

 でもこうして毎日料理をする日常に戻ると、月岡の好みを聞いて、彼のために何か作ってみたいと思った。

 彼は何が好きなのだろう? 珈涼は台所で鍋を見ながら、ふと思いを馳せる。

 月岡も出された料理に文句をつけたことがなかった。いつも珈涼に合わせて内容を決めて、食事の量さえ男性にしては少なめにしていた気がする。

 ただ、いつも夕食の後にコーヒーを飲んでいた。それは月岡の譲らない習慣だった。

 珈涼はコーヒーを飲む月岡の様子をよくみつめていた。彼はミルクや砂糖は入れない。大きな手だからカップが小さく見えて、長い指を取っ手にからませる仕草がどこか色っぽかった。

 彼は思案するようにカップの水面を眺めて、無造作にくいと飲む。

 ……そして気が付くと獲物を狙う目で珈涼を見ていて、あの時間が始まる。

 いつも最初のキスは、コーヒーの香りがした。そう思い返したところで、珈涼は頬が紅潮するのを感じた。

 人の屋敷で、しかも台所で何を考えているのだろうと気恥ずかしくなる。

 頬を押さえてうつむきながら、珈涼は思う。

 戻ったら月岡さんに、何か料理を作ってみよう。

 小さな望みを大切にと、母に教わった。でもそういう自分でたぐり寄せた願いは強く自分を支えてくれることも知った。

 珈涼はまだ月岡のことを考えていたいと思いながら、どうにか今日の献立に考えを戻す。

 今日の夜は瑠璃の帰りが遅くなるらしい。けれど夕食は欲しいと言っていたから、遅くに食べても胃もたれしない優しい味付けにしよう。

 調理を始めた珈涼の視界が、唐突に黒に染まった。

「元気そうだね、珈涼」

 雅弥の楽し気な声が耳を打つ。

「私と遊ぼう?」

 驚いて身を引くと、目の周りに布の感触があった。どうやら黒いタイで視界を塞がれたらしい。

 確か鍋を火にかけたばかりだった。慌てて火を消そうと手を動かすが、その手が掴まれて台の上に置かれる。

 髪を後ろから掴まれて、ぐいと前に押しやられる。頬に鍋の湯気がかかって、熱源の近さに珈涼は青ざめた。

「聞いたよ。屋敷の男たちに食事を配ってやったと。浅はかだけど、君がやれば効果はあるかもしれない。その綺麗な顔だけでも男は惑う」

 じりじりと熱源が顔に近づく。珈涼は台の上に手を突っ張ってこらえるが、後ろからの力の方が圧倒的に強い。

「君の顔には、火傷の一つくらいあった方が世のためじゃないかな?」

 珈涼は首を横に振る。間近に迫る熱に怯えながら、頭をつかむ手を振り払おうとする。

 恐ろしい気配に身がすくみそうになったときだった。

「……何てことするの!」

 ふいに押さえつける力が緩んで、珈涼は反射的にコンロから飛びのく。目を覆っていた黒いタイを振りほどくと、珈涼を後ろに守るように豆子が立ち塞がっていた。

 数歩離れたところに、雅弥が微笑を浮かべて立っていた。豆子は今にも爆発しそうな怒りをまとって、語気鋭く告げる。

「か……珈涼ちゃんに近寄るな!」

 豆子の背中は震えていたが、彼女は珈涼を庇ったまま動かない。

 雅弥はそんな豆子に気圧された風もなく、世間話をするように言葉をかけた。

「君って、白鳥組の不破君の恋人だっけ」

 豆子は答えなかったが、否定もしなかった。雅弥はくいと顎を上げて言う。

「黙って出て行ってくれないかな。不破君だってうちの組とはもめたくないだろう」

「私は取引まがいのことは嫌いだ! 私は不破も珈涼ちゃんも守るからいい!」

「君が不破君を守るの? 噂には聞いていたけど、気の大きい子だ」

 珈涼はまだ動悸が収まらない胸を抱えながら、豆子の肩に触れて彼女を留める。

 今は緊張に弱いという豆子が心配だった。自分は大丈夫と伝えたいが言葉にならず、首を横に振るしかできない。

 豆子は指をさして雅弥を怒鳴る。

「暴力は嫌いだ! 出てけ!」

 後には豆子の、ぜえぜえという息遣いが残った。

 沈黙はそれほど長くなかった。雅弥は豆子から珈涼に視線を移して、少しの間だけ考えたようだった。

 雅弥はふいに肩をすくめて言う。

「まあいいや。楽しみは後に取っておこう」

 雅弥は珈涼に興味を失ったように踵を返して、台所を出て行く。

 足音が遠ざかった頃、豆子はよろめいた。床に手をついて、どっと額から汗を流す。

「豆子さん!」

 珈涼は慌てて豆子の肩を抱いて、彼女を横たえた。

 豆子は全力疾走をした後のように息を切らしていて、目が怯えていた。

 その姿を見て、珈涼は心に決めて言う。

「すぐに逃げてください」

 珈涼は豆子を自分の方に向かせて、はっきりと念を押す。

「あなただけで。それで、すぐに不破さんと合流してください」

「駄目だよ。今離れたら珈涼ちゃんが危ない」

 豆子は激しく首を横に振った。けれど珈涼は言葉を続ける。

「今なら豆子さんは見逃すと、あの人は言っていましたから」

 珈涼は豆子をこれ以上危険にさらしたくなかった。きっとまた豆子は知恵熱を出して、恐怖に怯えながら、それでも背中に珈涼を庇おうとしてしまう。

 豆子は起き上がろうとしながら苦しそうに言う。

「こんな危ないところに残していけないってば……」

 豆子の体はまだ震えていた。珈涼は豆子の背をさすりながら彼女をみつめる。

 雅弥も、この家も怖い。でもそれ以上に、今はこの子を失うことが恐ろしかった。

「……うん。じゃあ決めた」

 豆子は口を引き結んでうなずく。

「すぐに助けを呼んでくる」

「私は……」

 月岡や豆子の恋人に迷惑をかけたくない。珈涼は首を横に振ったが、豆子は言葉を覆さなかった。

 豆子はふいに優しい顔で珈涼を見上げる。

「帰してあげたいんだ。月岡さんと一緒にいて笑う珈涼ちゃんの顔、また見たいから」

 豆子はぎゅっと珈涼の手を握って、誓うように言う。

「すぐだから。待ってて」

 豆子は前を強く見据えて、珈涼の手を借りながらも立ち上がった。

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