22 再会

第26話

 翌朝、人の近づく気配に警戒しながら珈涼は朝食を作っていた。

 屋敷の中は今日も静寂で満ちていて、鍋から立ち上る湯気がふわりと漂う。

 緊張には珈涼も強くないが、自分の身を守るためには虚勢を張らなければいけない。ここがそういう世界なのだと、少しわかった。

朝食が出来上がると、盆に乗せていつもの部屋に運んだ。

 朝食の席には既に瑠璃が待っていた。豆子の姿がない。

昨日まで隣で元気に話していた彼女は、昨夜のうちに屋敷を抜け出したから。

 無言で始まった朝食の時間を、珈涼はいつもの数倍に感じた。

豆子が無事に逃げおおせて恋人に合流できたか、そればかりが気になった。

「ごちそうさまでした。おいしかったです」

 瑠璃の言葉に、珈涼は考えに沈んでいた自分から目覚める。

 瑠璃の食事が終わったのを見届けると、珈涼は空いた瑠璃の食器を盆に載せる。

 豆子が力を尽くしてくれたのだから、自分も勇気を出そうと決めた。

「……瑠璃さん。お話があります」

 珈涼は顔を上げて瑠璃をみつめる。その眼差しの強さに、瑠璃が怯んだ気配がした。

「私は月岡さんの元に帰りたい」

 珈涼は瑠璃から目を逸らさないまま告げる。

「この屋敷から出るのを、見逃してもらえませんか。……その後に何が起こっても関与しない、それだけで結構です」

「豆子が確実に助けを呼べるとは限りません」

 瑠璃は険しい顔で首を横に振る。

「月岡がすぐに動くかも確証はない。月岡には敵もたくさんいます。別の組織が珈涼さんに危害を加えないとも限らない」

「でも味方になってくれる人たちもいます。豆子さんや、不破さんのように」

 珈涼は目を伏せて声を落とす。

「今でも月岡さんが私を求めてくれるか、それだけは……月岡さんに訊いてみないと、わからないのですけど」

 珈涼にとっていつだって月岡はまぶしい存在で、自分が彼と並び立つ姿をまだ想像できない。

 珈涼は顔を上げて、彼女なりの意思を宿した目で瑠璃を見返した。

「……月岡さんに何ができるだろうと、考えているだけでは何も変わらないから。お側に行って、何かしたいんです」

 珈涼は瑠璃に黙って、隙を見て屋敷を抜け出すことも考えた。雅弥の暴力を打ち明けて、雅弥が危険だと訴えるのも身のためだったかもしれない。

 でも瑠璃に隠し事をしたくない反面、彼が慕っている兄を否定したくもなかった。珈涼に接する瑠璃はいつも優しくて、彼のことを信じていたかった。

 だから正直に大事なことを告げた。

「あなたの気持ちは受け入れられないです。私は月岡さんのものですから」

 瑠璃は珈涼から目を逸らさなかった。彼は珈涼を見据えて返す。

「いずれ自由にすると申し上げたのは僕です。でも、考え直しては頂けませんか」

 瑠璃は月岡に似た、慈しみと熱を混ぜたようなまなざしで珈涼を射抜く。

「はじめは憧れでした。恋に変わるのに、時間はそれほどかからなかった。珈涼さん、僕はあなたの身を奪ったりしません。僕は少し年下ですが、じきに大人になります。僕と、穏やかな恋人同士になりませんか」

ふいに珈涼は瑠璃の手を取って、そっとその手を引いた

 珈涼はそっと瑠璃の頬にキスをする。瑠璃は目を見開いて、珈涼をみつめた。

 珈涼は瑠璃の手を離して、言いづらそうに告げる。

「ごめんなさい。瑠璃さんがそう言うと、月岡さんにささやかれているみたいで……何か返したくなってしまうんです」

 瑠璃は目をぱちくりとして、頬をかく。

「参ったな。そんなに似ていますか」

 瑠璃は難しい顔をして黙ると、ふいに苦笑した。

 瑠璃は一度迷って、その事実を口にする。

「父親違いの妹なんですよ」

 珈涼は息を呑んで問い返す。

「月岡さんの……?」

「はい。一緒に育ったことも、言葉を交わしたこともほとんどありませんが」

 珈涼は今までとはまた違う親しみを持って彼女をみつめた。

月岡の男性の色っぽさとは違う、中性的で凛とした雰囲気を持つ少女は、淡いような色香をまとう。

彼女は珈涼のキスを受けた頬をそっと手でなでて、つやっぽく笑う。

「……でも、今はこれで十分かな。月岡に敵うには、きっと十年はかかるだろうから」

 瑠璃は独り言のようにつぶやいて、夢見るように目を伏せた。

 瑠璃は珈涼に目を戻して言う。

「わかりました。珈涼さんがこの屋敷から抜けだす算段をつけましょう」

 瑠璃は目を細めて、口の端を下げながら付け加える。

「実を言えば珈涼さんの誘拐先がこの本家だと知れたら、危ないのは虎林組なのです。……近頃、月岡が身にまとう空気は恐ろしいものがあるのでね」

 瑠璃は少しおどけて珈涼に問う。

「あんな危ない男でいいのですか? 月岡の元に戻ったら、今度こそ監禁されてしまうかもしれませんよ?」

 珈涼はちょっとそれを想像して震えて、でも何とかうなずいた。

 この家では怖いことも多かった。でも月岡に捨てられたらと想像する方がもっと怖かった。どこへ行っても結局、珈涼の胸を占め続けるのは月岡なのだ。

 月岡の優しさが愛しかった。でもそれだけじゃない。珈涼を求めてくれる強引さに惹かれた。そうでなければ引っ込み思案の珈涼は月岡のところに行けなかった。

――私は不破も珈涼ちゃんも守るからいい!

 そう叫んだ豆子の声が耳に蘇る。

 自分も月岡を守りたいと思った。月岡から与えられるのを待っているのはもうやめにしたい。自分が月岡に何かできるという矜持を胸に、前を向いて歩きたい。

「……そんな人を、好きになってしまったから」

 珈涼は困ったようにつぶやいて、瑠璃はそんな珈涼に苦笑を返していた。





 虎林組の屋敷を離れて、珈涼と瑠璃を乗せた車が滑るようにある門戸をくぐったのは、それから二日の後だった。

「まだ来ていないみたいですね。白鳥組の若頭補佐は」

 地下駐車場で部下からの報告を受けて、瑠璃は独り言のようにつぶやく。

 瑠璃は豆子の恋人の元に、密かに珈涼を連れて行くことにしてくれた。珈涼は豆子の無事が知りたくて、早く不破に確かめたかったが、瑠璃は急ぐのは禁物だと言う。

「お気持ちはわかりますが、僕らにはいくつもしきたりがあります。幹部同士がむやみに争わないためには必要なんです」

 瑠璃はそう断ってから、聡い彼女らしい労わりで珈涼に声をかける。

「大丈夫です。不破は有能な男ですから、まちがいなく豆子を保護してくれていますよ」

 瑠璃はそう言って珈涼を元気づけてくれた。

 今日はこの料亭の庭で、組関係の会合が開かれているという。会合といっても各々家族や友人を連れて談笑する付き合いの場で、女性もいるそうだ。

けれど月岡の恋人の珈涼を人目にさらすのは危険で、瑠璃が別室に不破を呼んできてくれることになっていた。

 瑠璃は黒いカッター姿に白いタイを締めていた。まだ幼さもあるが、大人に交じって懸命に仕事をしようという気迫が伝わってくる。

 月岡もこんな年頃があっただろうかと思うと、珈涼はこんな状況でもつい微笑ましくなってしまった。

 通された和室は障子が引いてあって、庭からはうかがえないようになっていた。さざめきのような話し声が廊下から微かに聞こえて、まったくの無音でもない。

 組関係の人に会うのは怖い気がしたが、豆子の無事を確かめたい。珈涼は自分の胸に手を当てて深呼吸した。

 瑠璃は鍵を持って扉に向かう。

「ここでお待ちください。鍵もかけていきますから」

 そう安心するように言って、瑠璃は部屋を離れた。

 珈涼は一人になると、障子ごしに談笑する人たちの気配を感じていた。

 遠い世界だと思っていたところに来てしまった。影絵のように動く人たちを見ながら、ひととき実感も湧かずに座っていた。

 ……だから音も立てずに鍵が回って、人が入ってきたことにも気づくのが遅れた。

 突然後ろから抱きすくめられて、口を手で塞がれる。

 珈涼は呼吸も止まりそうだった。押さえられているのは口と腰回りだけだったのに、その腕は頑丈な鎖のように珈涼の身動きを許さなかった。

 横目で後ろを見やって、今度こそ珈涼の呼吸が止まる。

 獲物を狙う目がそこにあった。涼やかな目鼻立ちの中で目が鷹のように鋭く尖り、珈涼を食いつくすように見ている。

月岡さんと言おうとして、喉が詰まった。

 ずっと会いたかったのに、目の前にすると何を言っていいのかわからない。

 きっとたくさん迷惑をかけた。ごめんなさいと言いたいのに、言葉を閉ざすように腕に引き寄せられてしまう。

 息が詰まるくらいの強い力に、珈涼は少し身をよじる。

 だが月岡はわずかにも体を離すことを許さなかった。珈涼の頭に押し当てた彼の喉が震える感触があった。

 月岡は珈涼の髪に顔を埋めて沈黙すると、珈涼を拘束していた腕を解いた。

 手を引いて、珈涼を守るように自分の背中の後ろに送る。

「君が来るとは思ってなかったよ、月岡」

 月岡の前に立って、雅弥が底の見えない微笑みを浮かべていた。

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