19 表と裏
第23話
血の気をなくした珈涼とは違い、瑠璃は振り向いて弾んだ声で雅弥に言った。
「兄さん、おかえり! どうしたの、今日は早いね」
珈涼は、初めて見る瑠璃の表情に目を留めた。年に似合わない落ち着いた少年ではなく、甘えるような顔だった。
「ただいま。瑠璃、ちゃんと悪い子にしていたか?」
「ちゃんと悪い子ってなんだよ。そんなことできないってば」
対して雅弥も、年の離れた弟を冗談交じりにからかう。瑠璃は笑って、雅弥はそんな瑠璃の頭をぽんと軽く叩いた。
雅弥はその優しい声のまま、目だけを上げて珈涼を見る。
「客人に顔も見せないのは失礼かと思ってね」
瑠璃はそこで珈涼の前だったことに気づいたように、慌てて珈涼に向き直った。
瑠璃は雅弥と珈涼の間に入って、いつも通り礼儀正しく告げる。
「珈涼さん、紹介します。虎林組の組長で僕の兄の、雅弥です」
戸惑った珈涼とは対照的に、雅弥は気安く珈涼の前に手を差し出す。
「初めまして」
冷たい珈涼の手を取り上げて握手を交わすと、雅弥は見惚れるほど優雅に微笑んだ。
「……といっても、実は初めてじゃないんだ」
珈琲は内心ぎくりとする。昨夜のことを瑠璃の前で雅弥が言うとは思わないが、雅弥の目を見るのが怖くて視線を下げた。
案の定雅弥が言ったのは昨夜のことではなかった。
「玲子さんのお店にはよく行ったからね。瑠璃は恥ずかしがって話もできないようだったが」
母の名前を聞いて、ふと珈涼は目を上げた。
雅弥と瑠璃が並ぶと既視感があった。母の店でいつも窓際の席に向かい合って座っていた兄弟が脳裏をよぎる。
ホットミルクを一生懸命冷ましながら飲む小さな弟と、それを微笑ましそうに見守る年の離れた兄。
……まさか極道とは思えなかった。それは穏やかな雰囲気の二人組だった。
雅弥は冗談なのか本気なのかわからない調子で言う。
「瑠璃はね、お店に行くたび、「兄さん、早く玲子さんと結婚して」って急かすんだ」
「兄さん!」
珈涼は驚いて思わず瑠璃を見る。彼は顔を赤くして制止したが、そんな顔ではとても迫力などなかった。
雅弥は瑠璃にくすくすと笑う。昨夜見た暗い笑みではなく、しょうがないなというような温かみのある笑い方だった。
珈涼がどうにも雅弥という人がわからなくなったときだった。
「でも途中から、みつめる先が変わったね。瑠璃?」
雅弥が瑠璃の耳元でささやいた言葉に、瑠璃は危ういような目をして黙った。
「別にいいんだよ、何をしても。……瑠璃にあげたものなんだからさ」
それが自分のことを指しているのか、確かなことをたずねるのは怖かった。
珈涼は助けを求めるように、ずっと黙っている豆子をうかがう。
「……豆子さん?」
そのとき、豆子の顔色がひどく悪いのに気づいた。
珈涼が慌てて豆子に腕を差し伸べると、彼女の体は熱を帯びている。
「どうした?」
瑠璃も何が起こったのかわからないとばかりに覗き込んでくる。
その後ろで、雅弥は感情の読めない微笑を浮かべていた。
珈涼は心臓が早鐘を打つのを感じながら、気を引き締めて場を眺める。
……自分と同じように、豆子も傷つけられたのかもしれない。
しっかりしなければと珈涼は自分を叱咤する。
珈涼は守るように豆子を抱きながら、これからのことに思いを馳せた。
豆子の熱は上がったり下がったり、不安定だった。
医者も呼ばれたが、原因はよくわからないという。珈涼は片時も豆子の側を離れず、食事も取らずに看病していた。
夕方熱が下がって来て、豆子は目を開いて傍らの珈涼を見上げた。
「情けないなぁ、私」
豆子はため息をついて言う。
「知恵熱なんだ。私、緊張するとすぐこうなっちゃうんだよ」
珈涼はその言葉を意外に思った。ここに連れてこられてから毎日瑠璃と言い合いばかりしている豆子が、緊張をしているなんてとても気づかなかった。
でも考えてみれば、豆子だって珈涼とそう年の変わらない少女だ。極道の家に連れてこられて怖くないはずがない。
「病気じゃないから安心して」
豆子はそう言うが、珈涼は体から力が抜けなかった。
豆子が毒を盛られていないと、どうして言い切れるだろう?
昼から何度となく、これから訪れるかもしれない危険をどう回避すればいいか考えた。
豆子の手をぎゅっと握りしめる。豆子はそれに気づいたのか目を和らげて、すぐに顔を引き締めた。
「私の知ってることを話すよ」
小声だったが、確実に伝わるように珈涼の目をまっすぐ見据えて告げる。
「虎林組って、跡目争いでもめてるんだ。瑠璃のことだよ。まだ子どもなのに若頭なんて、早すぎるって」
珈涼は月岡のことを思い出す。龍守組では二十歳の兄に補佐の月岡がついた。実質的には月岡が兄の代わりに表に立っていると聞いた。
でも瑠璃に補佐らしき人間がついている気配がない。十五歳という若さで夜遅くまで仕事をしている。掃除も食事も一人でこなしている。
「雅弥って組長は、瑠璃を批判する人間を片っ端から黙らせているんだって」
珈涼はうつむいて顔をかげらせる。
昨夜見た雅弥の冷えた目が頭をよぎる。瑠璃の前では優しい兄のように振る舞っていたが、彼はきっと恐ろしい人だと珈涼も思う。
「でも虎林組がどうなるかはこの際いい。あたしたちがやることは決まってる」
豆子は一度目を閉じると、ばっと起き上がった。
「脱出しよう。私、外に出る手段を探してみるよ」
知恵熱が出るくらいに緊張に弱い子なのに、その意思が力強かった。
眩しい太陽を見たように目の前がくらむ。だから珈涼も、もうちょっとがんばってみようと思った。
珈涼はうなずいて、豆子に言う。
「私もできることをしようと思います」
そして豆子にだけ聞こえるように、小声で話し始めた。
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