18 静寂の屋敷
第22話
重苦しい眠りの中で、珈涼は繰り返し悪夢を見ていた。
月のない夜、月岡が凍るような目で珈涼を見下ろしている。やがて何も言わずに呆れたようにため息をついて、どこかに行ってしまう。
それは今までにも何度か珈涼が目の前に描いた光景だった。いつも月岡に捨てられることを考えて、びくびくしていたから。
珈涼は今も、悪夢が現実になるかもしれないと怯えている。
自分から月岡の元を離れたとき、そのまま戻らなければ、そんな悪夢も消えたのだろう。
ただ元の生活に戻るだけでしょう? そう思うと、珈涼は悪夢とは違う鮮烈な痛みの火を胸に抱いた。
ふいに珈涼の望む声に似た、けれど少し幼い声が聞こえた。
意識を呼び戻された珈涼は、悪夢より現実的な痛みに苦笑して瞳を開いた。
「具合はどうですか」
そこで瑠璃が心配そうに珈涼を覗き込んでいた。反対側には豆子もいて、真昼の日差しの中だというのに、二人とも青ざめて見えた。
豆子は険しい顔で珈涼に言う。
「覚えてる? 夜中に物音がして見に行ったら、珈涼ちゃんが洗面台のところで倒れてた」
珈涼はうなずいたものの、喉はからからで息を通すだけで痛かった。
「……ご迷惑を、おかけしました」
喉のひきつれるような痛みに声が掠れた珈涼に、瑠璃は痛々しそうな顔をした。
「僕らのことはお気になさらないでください。ひどい喘息の発作をお持ちだと聞いていたのに。眠っている間に医者に診てもらいましたが、痛むのならまた呼びますか? ……薬はありますが」
薬、その言葉を聞いたとき、珈涼の中で恐怖が蘇った。
「あ、いけません。寝ていてください」
起き上がろうとする珈涼を慌てて押し留める瑠璃に、大丈夫と首を横に振る。
夜の間にあったことが、珈涼にここは安全ではないと教えていた。
雅弥と名乗ったこの家の主、彼から珈涼に向けられたのは悪意だった。彼が本気だったら、珈涼は命さえ奪われたように思った。
ただ喘息の発作はひとまず鎮まっている。おそらく雅弥に飲まされたのは喘息に相性の悪い薬の類だったのだろうが、幸い劇薬ではなかったらしい。
こうして瑠璃と豆子の二人が側にいてくれると、夜のうちの出来事がただの悪い夢だった気さえしてくる。
……でも雅弥の悪意は、次にどんな形になるのかわからない。
ふいに豆子のお腹が鳴った。もう太陽が高いところにあるのに、珈涼を見ていてまだ食事を取っていなかったらしい。
珈涼は慌てて二人に振り向いて言った。
「二人とも、私に構わず食事を取ってください」
「そうですね。珈涼さんも召し上がった方がいいです」
瑠璃も声を上げて席を立った。
「喉通りのいいものをお持ちしますね」
さっと歩き出す瑠璃の背中を引き留められず、珈涼はもどかしい思いがした。
虎林組は大きな組らしいが、その割に人が少ない。龍守組では愛人の娘である珈涼にさえ世話係がついていたのに、ここではナンバーツーの瑠璃が自ら台所まで出向いている。
三人分の食事を運ぶのも一人では大変だろう。立ち上がりかけた珈涼を、豆子が制止した。
「無理しちゃだめだよ。倒れたばかりなんだからさ」
豆子は辺りをはばかるように小声で告げた。
珈涼も自然と辺りに耳を澄ませて気づく。そこは人の話し声も、車の走る音も聞こえなかった。
思えばここは二十畳ほどもある立派な部屋だというのに、瑠璃以外の人が立ち入ったことがなかった。それが誘拐されたということなのだろうが、瑠璃の警備を考えれば使用人が控えていてもおかしくない。
ただ珈涼と豆子が暴れたりしなければ、ここは孤立した安全さがあった。
窓から外は見えるが、一面はめ殺しのガラスで閉ざされていて、庭に下りることはできないようになっていた。
この家で暮らしている瑠璃はどんな気分なのだろう。まるで瑠璃が閉じ込められているような錯覚を覚えて、珈涼は複雑な思いに囚われた。
静寂の中で、豆子は冗談のように言う。
「私もお腹空いて動きたくないし」
豆子の言葉使いは明るいが、表情が硬かった。その言葉は動きたくないというより、動かない方がいいというように聞こえた。
二人で聞き耳を立てるように黙っていて、三十分ほどが経った。
瑠璃が戻ってきて、豆子は彼の盆に乗っている食事を見て声を上げる。
「えー、レトルト?」
「仕方ないだろ。今冷蔵庫にこれしかなかったんだから」
豆子に差し出されたのは冷凍食品のドリアだった。瑠璃も同じものを持って座る。
けれど瑠璃は珈涼にだけは別の食事を作ってきたようだった。
「簡単なものですみません」
珈涼には錦糸卵とネギ、しょうがの添えられたそうめんが振る舞われた。氷がたくさん乗っていて、冷たくておいしそうだった。
「ありがとうございます。お気遣いいただいて」
珈涼はそうめんに箸を伸ばしたが、無意識にその箸を止めてしまった。
勝手に喉が引きつって、昨日の痛みが喉をひっかいた。
「珈涼さん?」
珈涼は自分に向かって、瑠璃は毒など盛るはずがないと言い聞かせる。でも珈涼の体に刻まれた痛みが、恐れるまま食べることを拒絶する。
瑠璃は珈涼の顔をのぞきこんで、心配そうにたずねる。
「喉が痛みますか?」
珈涼は首を横に振るが、やはり体は動かない。
申し訳ないという思いと怖がる思いがせめぎあって、珈涼を凍らせたときだった。
ふいに横から箸が伸びる。びっくりして振り向くと、豆子がそうめんをひとつまみ取って自分の口に入れたところだった。
瑠璃は顔をしかめて豆子を叱る。
「何してる! 珈涼さんのお食事に手を出すなんて」
「だってこっちの方がおいしそうなんだもん」
豆子は悪びれずに返すと、ごくんと食事を飲みこんで笑った。
「うん、おいしいよ!」
その屈託のない笑顔に、ようやく珈涼の緊張が解けた。
たぶん豆子は珈涼のために先に食べてくれた。自由に振舞いながらの気遣いに、珈涼は後でお礼を言おうと心に決める。
珈涼は豆子にそっとうなずいて、箸を動かし始めた。
「おやおや、冷凍食品なんて食べて。ホテルのデリバリーの仕方は教えてあるだろう?」
ふいに瑠璃の後ろからかけられた声に、珈涼は息を呑む。
気配は感じなかった。そこにいつの間にか、覚えのある人物が立っていた。
長身痩躯に似合う白いスーツと黒のタイ姿は、夜の匂いを色濃くにじませる。劇場にいるように映えるのに、闇にも溶けるような矛盾したいでたちだった。
「もっとおいしいものを教えてあげようか?」
雅弥はジョーカーじみた声で告げて、珈涼に目を細めた。
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