17 毒

第21話

 虎林組という名前を、珈涼は聞いたことがあった。

 兄の真也が何かと気に入らない組だと話していた。父の組である龍守組とは対立しているとも言っていた。

 ただ月岡は一切仕事の話をしなかったし、珈涼も訊かなかったので、現在どういう状況なのかは知らなかった。

 だから豆子が話すことは、珈涼にとって初めて聞くことばかりだった。

「月岡さんが龍守組を乗っ取ったから、いろいろもめたんだよ。龍守組に抗議するって名目で虎林組の組員があちこち荒らしたりして大変だったんだぁ」

 それに反論する瑠璃の言葉も、珈涼には聞きなれない言葉があふれていた。

「確かに月岡の乗っ取りに抗議はしたが、白鳥組のシマを荒らしたのはうちの組員じゃない。はねっかえりのチンピラどもの仕業だ」

 瑠璃は年に似合わない言葉遣いで、堂々と話してみせた。

 その夜、三人は一緒に夕食を取っていた。並べられたのは今時珍しいくらいの質素な和食だったが、瑠璃は丁寧な箸使いで口に運んでいく。

 豆子はその内容にむっつりとして、瑠璃はそれに気づいて腹を立てていた。

「けちー。大きい組のごはんがこんな貧しくていいの?」

「何がけちだ。お前の分の食事も出してやるだけありがたく思え」

 二人は今朝出会ったばかりだというが、案外波長は合うようだった。珈涼は頬を綻ばせて自分の食事に目を戻す。

 珈涼の食事は二人とは違う。しばらくチューブで食事を取っていた珈涼は、まだ油を受け付けない。副菜と、病人食に近い柔らかい米を食べていた。

 最初珈涼は、自分の分はスープくらいだけでいいと言った。残してしまうのも作ってくれた人に悪い。そうしたら瑠璃が珈涼の心を察したように言ってくれた。

「残してもいいんです。豆子の言う通り、うちは別に金がなくてこういう食事をしているわけじゃありません。ちょっと事情があるだけです」

 そう言ってもらえたのは珈涼の気持ちを楽にしてくれた。

 珈涼はさじに口をつけて粥を食べた。喉や胃はまだ少し痛むが、体に満ちる温かさに安堵した。

 大丈夫というように瑠璃にうなずきを返したら、彼は嬉しそうに微笑んだ。

「よかった。少しずつ食べられるものを増やしていきましょう。何か食べたいものがあったら遠慮なく仰ってくださいね」

 それは月岡が繰り返し珈涼に掛けた言葉に似ていて、彼の容姿も相まって月岡がそこにいるように思わせた。

 今日の日中から、何度月岡のことを考えただろう。珈涼が誘拐されて、月岡に迷惑をかけていないか。それが心配で、珈涼はうつむいた。

 瑠璃は優しいと思う。虎林組と龍守組のもめ事の話もすぐに打ち切って、後は他愛ない話をしてくれた。

 食後、豆子が風呂に行っている間、瑠璃は湯桶と体を拭くタオル、替えの包帯と浴衣を持ってきてくれた。

「あの、自分で」

「包帯を巻くのは自分では難しいですよ。頼ってください」

 けれど瑠璃は男の人だからと珈涼がためらっていると、彼は苦笑して言った。

「体を拭いて、包帯を替えるだけです。お約束します」

 瑠璃はそう告げて、あっさりと珈涼のローブを解いてしまう。

 珈涼は胸を隠しながら体を小さくしたが、瑠璃は確かにそういう意味で珈涼に触れたりはしなかった。

「華奢ですね、珈涼さんは。よく食べて養生しないと」

 見上げた彼の目には、年頃の少年が見せるような欲望はなかった。不必要に目を止めることもなく、珈涼の体が冷えない内にとてきぱきと体を拭いた。

 それが終わったら珈涼の傷の消毒も手ずからこなして、瑠璃は頭を下げた。

「部屋を出て突き当たりを曲がったところに洗面所があります。歯ブラシなどはそこに用意してありますので、お休み前にお使いください。僕はこれから仕事に行って参ります」

 珈涼はとっさに瑠璃の手を握って止めた。

「あ、はい……何でしょう?」

 瑠璃はびくりと反応して、多少上擦った声で問い返した。

 珈涼はちょっと迷ってから言う。

「お仕事、大変ですね。無理はなさらないでください」

 珈涼が拙いことしか言えない自分が恥ずかしくて尻すぼみになったら、瑠璃はくすっと笑い返した。

「珈涼さんは人がいい。誘拐犯も労わってくださるんですね。僕の仕事というのも、基本的には「悪いこと」ですよ?」

 その悪戯な目配せに狡猾さはなくて、珈涼はつい見とれてしまった。

 瑠璃は珈涼の手を握り返して目を伏せる。

「……ありがとうございます。兄しか僕を労わってくれる人はいないと思っていました」

 珈涼が目を瞬かせると、瑠璃はまた笑って席を立った。

「おやすみなさい」

 食事の時、瑠璃はまだ十五歳だと聞いた。

 けれどすっくと立つ一本の樹のように毅然としていて、どこか寂しげな後ろ姿だった。




 珈涼は夜更けに咳が出て、まだ暗い世界で目を覚ました。

 豆子は隣で、布団を蹴飛ばして寝ている。珈涼はそっと豆子に布団をかけ直すと、胸を押さえて咳を飲みこむ。

 熱はないようだが、側で咳き込んでいては豆子を起こしてしまう。洗面所へ薬を飲みに行こうと、枕元の盆の上に置かれた薬を持って立ち上がった。

 静まり返った廊下を裸足で渡る。咳をこらえて歩くと、ほんのわずかな距離なのにずいぶんと長く感じた。

 やっと洗面台に辿りついた時には息も上がっていた。震える手で錠剤を取り出そうとする。

「薬は体によくないよ」

 突然暗闇から手が伸びて、珈涼の手から薬を奪った。驚いて、もう片方の手に持っていたコップの水が少し零れる。

 水がじわりと床に染みを作るさまが、奇妙にゆっくりと見える。その染みを踏みしめて立ったのは、白いスーツ姿の青年だった。

「初めまして、君が珈涼だね。噂に違わず綺麗な子だ」

 年は二十台後半、鼻筋の通った秀麗な顔立ちをしている。けれど広い肩幅や眼光の鋭さには、人を威圧する雰囲気があった。

「私は雅弥まさや。ここの主だ。我が家の居心地はどうだい?」

 口調は優しく、表情も穏やかだ。その言葉だけを聞くなら、珈涼を労わっているように思える。

 ……だがそれならどうして、珈涼から薬を奪ったまま返してくれないのだろう。

 こらえきれずに珈涼の喉から咳が漏れる。身振りで、薬を渡してくれるように頼む。

「これが欲しい?」

 まるで子どものおねだりを聞くように、雅弥は首を傾ける。

「いいよ。ほら」

 珈涼がうなずくと、雅弥はあろうことか薬を直接彼女の口に入れた。

 突然入ってきた固形物に驚いて、珈涼は飲みこんでしまう。

「う……!」

 瞬間、珈涼の喉に焼け付くような痛みが走った。

 雅弥は楽しい舞台を前にしたように目を細めてみせた。

 珈涼は体を折って激しく咳をする。喉を通った感触は、いつもの薬ではなかった。

「やっぱり薬は体によくないんだよ」

 ……もしかしたら、瑠璃が置いていったものが既に毒だった?

 頭によぎった考えを打ち消す暇もなく、ひどい発作で呼吸もできなくなる。

 雅弥は珈涼の肩に手を置いて、彼女の耳に口を寄せる。

「不便な体だね、珈涼」

 雅弥は珈涼の発作など他人事のように淡々と話す。

「君自身、一種の毒なのかな。コーヒーみたいに何度も欲しがらせてしまう。君はそうやってどれだけの人を惑わしてきたんだろう?」

 くすくすと笑いながら、雅弥は秘めやかにささやく。

「君みたいな悪い子は外に出ない方がいい。君のためだよ」

 耳に湿った感触を受けて、珈涼は鳥肌が立った。

 珈涼は口元を押さえながら振り返ろうとしたが、肩を押さえられていてできなかった。

 雅弥は珈涼の耳朶をかんで、ぺろりと舐めあげる。

 次の瞬間には珈涼は突き飛ばされていて、視界が反転する。

 床に倒れた珈涼の目の前に、コップから零れた水の染みが広がる。

「かわいい子だね」

 じわじわと広がっていくそれは、まるで血の染みのように見えた。

「……醜い子だ」

 薄れゆく意識の中で、慈愛と侮蔑の目が珈涼を見下ろしていた。

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