16 誘拐
第20話
珈涼は深い海から浮かび上がるように目覚めた。
体が重く、頭が鈍く痛む。けれど肌触りのいいローブと、そして人肌に包まれていた。
……でも、人肌というのは違和感がある。珈涼は頭に疑問符を浮かべて、まぶたを開いた。
そこで珈涼が見たのは、言い争う少年と少女の姿だった。
少年の方が、珈涼を庇うように抱きこんでいる少女に文句をつける。
「珈涼さんから離れろ。失礼だろう」
「やだね。ぜーったい離れるもんか」
珈涼の知っている人肌の感触というのは、母と月岡だけだった。どちらも珈涼の体温より低くてさらりとしていて、包み込まれていると深い安堵に満たされた。
ところが今珈涼の肌に触れている少女は、抱きつくように強引で、そして子ども特有の温かさだった。ぷにぷにとしていて、何だか愛おしいとさえ思う。
少女はまばたきをしている珈涼に気づいて、明るく声を上げる。
「あ、おはよ!」
少女は珈涼の横から起き上がると、声をかけてくる。
「昨日の昼、待ち合わせることになってたよね? 私がその
「あなたが……」
珈涼と月岡が一緒に暮らし始めて、少し経っていた。
珈涼が月岡さんの仕事について学んでいきたいと言ったら、月岡は珈涼へすぐに極道を近づけるのは渋った。
けれど月岡は、不破という友人なら信用が置けると言っていた。
「お互い面倒くさい恋人を持ったけど、仲良くやろうね!」
今こうして光の中で、愛嬌たっぷりの顔立ちと対面する。彼女は柔らかそうな頬、小さな鼻、話し掛けたくてうずうずしている口元をしていて、そして目が豊かな光をたたえて微笑んでいた。
気さくに珈涼に笑いかけた豆子に、珈涼はおずおずとお礼を言う。
「お会いできてうれしいです。豆子さん」
「硬いこと言いっこなしだよ。不破のとこって男ばっかで、女子成分が全然足らなかったんだぁ」
豆子はどんどん話し出しそうだったが、その豆子を冷たくにらんだ少年がいた。
「珈涼さんを汚すな。珈涼さんはお前みたいな世俗的な娘とは違うんだ」
珈涼が顔を上げて少年を見たとき、珈涼は一瞬彼に月岡が重なった。
月岡が幼かったらこういう風だったのではと思う。彼は凛と咲く梅のように中性的な少年だった。年齢は十五ほどだが雰囲気が大人びていて、向き合う人間を怯ませてしまうような気迫があった。
「あなたが四宮珈涼さんですね」
少年の言葉に、珈涼はどうして自分のことを知っているのだろうと不思議に思う。
その疑問のままに少年をみつめたら、彼は目を逸らしてつぶやいた。
「……玲子さんによく似ていらっしゃいますね。あまりみつめないでください。そんな綺麗な目で見られると……照れるんです」
けれど少年は月岡に似て、力強さも帯びているようだった。意を決したようにごくりと喉を鳴らして、まっすぐに珈涼を見た。
「僕は
意思の強そうな目は珈涼を射抜いて、ふと苦い色を帯びる。
「兄から僕への……誕生日祝いとして」
「もう、訳わかんないなぁ」
豆子はむすっとして無遠慮に割り込んできた。
「常識で考えてよ。女の子をいきなり誘拐してきて誕生日プレゼントにするなんて、かわいそうだと思わないの?」
「黙れ。お前の口出しすることじゃない」
瑠璃は鋭く豆子を睨み返して言い放った。
「常識は僕もわかっている。でも僕らの世界は常識と同じ軸にない。組長の意思なら、それに従うまで」
その目の力は確かに月岡と同じ世界の住民で、豆子さえその気迫には一瞬黙ってしまった。
でも珈涼が怯えたのに気づいたのか、瑠璃は落ち着いたまなざしで珈涼を見やって言う。
「珈涼さん、大丈夫です。僕は女性に危害を加える男ではありません」
珈涼も彼に恐れを感じる。けれど目の前の少年は礼儀正しく、過剰なほどに珈涼へ気を遣っているのも伝わっていた。
「ただ、しばらくはここにいて頂くことにしました」
瑠璃はふと、黒い瞳に痛みを浮かべて珈涼をみつめた。
「あなたを見て気が変わったんです。……こんな、ひどい」
瑠璃は眉を寄せて痛ましい顔をする。珈涼は彼の視線の先にあるのが珈涼の体に巻かれた包帯であることに気づいた。
「月岡という男は人間とは思えませんね。こんな綺麗な人を痛めつけることができるなんて」
「ち、違います。これは」
珈涼ははっと息を呑んで弁解しようとした。
「月岡さんが傷つけたわけじゃなくて……」
「ご自分でなさったのは知っています。月岡が追いつめたからでしょう?」
珈涼は首を横に振る。けれど瑠璃の目に宿った暗い光は消えなかった。
「失礼ながら、いろいろと調べさせて頂きました。マンションに監禁されていたことも、そこであなたが食事も取れずにやせ細っていたことも存じております」
瑠璃は月岡に似た、けれど狂気と紙一重にある純粋さで珈涼を見返した。
ただ彼はすぐにその狂気を綺麗に覆ってみせると、ふとほほえんだ。
「……僕はあなたを元の生活に戻して差し上げたい」
年に似合わない甘い声色で、瑠璃は珈涼にささやく。
「僕のことはあなたの信者とでも思ってください。なに、偶然が味方についただけで、月岡も本来あなたを遠目にみつめる一人に過ぎなかったのですから」
瑠璃は優しく珈涼に話しかける。
「ここは確かに虎林組の家ですが、あなたの体が治ったら自由にするとお約束します。だから今は静養なさってください」
そこで瑠璃はジト目で自分を見る目に気づいたようだった。豆子を面倒そうに指差して、珈涼に目を戻す。
「あなたをお連れする時にどうしても離れなかったので、この娘も連れてきたそうです。世話係程度に使ってやってください」
「なんだかなぁ」
瑠璃は豆子をにらんだが、豆子は口笛を吹いてそっぽを向いた。そのふてぶてしい態度に瑠璃は眉間の皺を深めたが、それ以上豆子に何か言うことはなかった。
瑠璃は立ち上がりながら、珈涼の肩に手を置いて告げる。
「僕は仕事に行って参ります。朝食を運ばせますので、ゆっくり召し上がってください。……夜には戻ります」
瑠璃は頭を下げて去って行った。
ふすまが閉じられて足音が遠ざかった後、豆子は珈涼に振り向いて言う。
「あの瑠璃って子、子どもなのか大人なのかわかんないなぁ」
珈涼はうなずくべきか迷う。瑠璃の態度は珈涼への労わりが透けて見える。でも珈涼をみつめるまなざしは、いつか獲物を狙う目に変わる危険もはらんでいた。
「でもあの子のお兄さんには気を付けて」
豆子は警戒をまとってその名前を告げる。
「……虎林の組長は、確実に悪い人だよ。とっても怖い感じがしたんだ」
豆子はぎゅっと珈涼の手を握ってその目を覗き込んだ。
「早く逃げた方がいいと思う。珈涼ちゃん、月岡さんに連絡取れない?」
珈涼はとっさに月岡に助けを求めるのをためらった。
自分が一緒にいることは月岡のためにならないのではと、まだ怖がる思いが残っている。一緒に暮らし始めた今も、月岡の相手が自分でいいのか迷ってばかりなのだから。
……自分が足を引っ張って、もし月岡に疎まれてしまったら?
「大丈夫」
ふいに、ぎゅっと抱きしめられた。子ども特有の体温の高さに、強張った珈涼の体から力が抜ける。
「今、珈涼ちゃんはどこへ行きたいかわからないって顔をした。それはつらいよね」
豆子は体を離して珈涼の両肩に手を置く。
「でもね、たぶん月岡さん、今頃必死で珈涼ちゃんのこと探してるよ」
なんだか豆子は珈涼より月岡のことをよく知っているような気がして、不思議な思いに包まれた。
子どもにするように珈涼の頭を撫でて、豆子はにっと笑う。
「たぶん珈涼ちゃんはいっぱい傷ついたんだね。今はよく休んで、それで元気になったら……ぎゅっと月岡さんをハグしてあげればいいよ」
「……はい」
豆子の笑い方は珈涼の心を楽にしてくれて、珈涼はうなずきを返したのだった。
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