番外編 悪いひと
第19話
月岡にとって珈涼の世話を焼くというのは生活の中心を占めていて、なぜかと考えたことはない。
朝起きて珈涼の分の朝食を用意する、大学まで車で送っていく、お風呂で珈涼の体を洗う。どれも手間どころかそうすることで満ち足りて、時々珈涼が実家に帰ってしまうと虚脱感にとらわれて何もかもが嫌になってしまうほどだった。
自分は珈涼さんより前には死ぬまい。誰かに珈涼さんのお世話をさせるなど、死んでもごめんだ。その決意は体だけではなく精神も鍛えたのか、敵対組織のやくざに啖呵を切られようと刃物を机に刺されようと、およそ焦りも怒りも感じたことがなかった。
「明日、
珈涼が弾んだ声で月岡にたずねたとき、月岡はいつものように珈涼の後ろに座って彼女の髪をドライヤーで乾かしていた。
月岡は反射的にドライヤーのスイッチを切って、ふわりと漂った珈涼の髪の匂いを吸い込んで気持ちを落ち着かせようとした。
直之さんのお家にお泊り……してもいいか?
心の中で珈涼の質問を繰り返して、月岡はすんでのところで鬼に変わりそうだった感情を押さえ込んだ。
「白鳥組の若頭は、礼儀正しくて聡明な青年ですね。坊ちゃんとも仲がよろしい」
月岡はドライヤーのスイッチを入れて、世間話をするように言った。ドライヤーを握る力がかなり増したのは、たぶんうなずき返した珈涼には気づかれなかった。
「お兄さんと高校の頃からのお友達で、私にも親切にしてくださるんです。この業界のこともかみ砕いて少しずつ教えてくださって」
「そうなんですか」
それらの情報は、月岡はすべて調べ上げて知っている。月岡は珈涼の身辺は大学の教員のことまでひととおり目を通しているが、直之には格別に目をとがらせていた。
小さな組の若頭ではあるが、紳士的で優しく、大学の先輩で……珈涼も自分では気づかないくらいに淡く、好意らしいものを見せている。
珈涼の感情には、致し方ないところもある。子どもの頃から見守ってきたが、珈涼は内気で浮いた話の一つもなかった。月岡の知る限り誰かと付き合ったこともない。それがたまらなく月岡の独占欲を満たしてきたのも事実だ。
「その方が月岡さんにもいいと、お兄さんが」
月岡はまたドライヤーのスイッチを切った。今度は珈涼の言葉の意味がわからなかったからだった。
「は……?」
「お兄さんが……男の人には、遊びが必要なときもあるって」
珈涼が言いがたそうに口にした言葉の意味を理解して、月岡は一瞬鬼の顔をした自分に気づいた。
けれどそれを珈涼が見てしまう前に彼女の目を手で覆うと、珈涼を抱いて立ち上がった。
「つ、月岡さん?」
「お泊りはだめです」
致し方ないなどと仏の顔をするのはあきらめて、月岡は優しく言った。
「いけない子ですね、珈涼さん。これからお仕置きをしますから、どこがいけなかったか答え合わせをしましょう」
それで、珈涼が手に入らない苛立ちまぎれに遊び狂った過去の自分へは、これからの人生でたっぷり反省させるとしよう。
ちょっとだけ悪い子の耳を噛んで笑った悪い大人は、寝室に続く扉を足で閉めて、後にはドライヤーだけが転がっていた。
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