番外編 風邪をひいた日

第18話

 珈涼が風邪をひいた日、月岡はちょうど海外へ十日間の出張に行っていた。

 病弱な珈涼は、元々寝込むことが多かった。けれど月岡と一緒に暮らすようになってから、めったに体調を崩さなかった。

 それは月岡に厳重に体調管理されていたからだった。少しでも珈涼の具合が悪いと気づくと医者に診せて、その日珈涼にどんな予定があっても休ませた。

 おかげで大学にも通えるようになったのだから、珈涼も感謝している。けどその日、月岡の言いつけを守らなかったのは……珈涼のちょっとした反抗心だったのかもしれなかった。

「あ……」

 珈涼がうたたねから目を覚ましたら、覚えのある寒気がした。

 ノートから顔を上げるとそこは大学のゼミ室で、時計は夜の十一時を指している。部屋には珈涼以外誰もおらず、窓の外は木枯らしが吹いていた。

 そろそろ寒くなる晩秋の夜、月岡がいたら外にも出してもらえない。それに実は朝から調子が悪かったのに、水場の掃除をしてから夕方に大学に来たのだった。

「……寒い」

 カタカタと震えながら、珈涼は肩掛けを引き寄せた。

 寒かったから、月岡が珈涼に不自由がないようにと手配してくれていたスタッフの清掃を断ってまで掃除をしてしまった。一人冷えたベッドで眠るのが嫌だったから、風邪をひくとわかっていて、夜遅くまでゼミ室でレポートを書いていた。

 子どもみたいなことをしてしまったと珈涼は唇を噛む。

 熱はずいぶんと高くなっているようだった。立ち上がろうとしてよろめいて、床に尻餅をつく。そのまま動けなくなってしまった。

 月岡に持たされた携帯電話には、彼の信頼する部下の連絡先が登録されている。困ったらいつでも呼んでくださいねと言いつけられている。

 でも部下ではなくて、月岡自身に迎えにきてほしいと思ってしまうのが……珈涼は恥ずかしかった。

 熱とだるさで意識がもうろうとする中、携帯電話に着信があった。

 相手は月岡で、珈涼は自分の浅はかな願いを知られてしまったような思いがして、とっさに着信を切ってしまう。

 どうしようと珈涼は焦る。

 以前、珈涼が大学構内でしつこいサークル勧誘に困っていたら、大学生らしからぬ落ち着きを持った女性に助けられた。またあるとき、電車の中で男の人に体を触られた途端、やはりどこか異質な雰囲気を持つ若い男性が間に入って、痴漢を追い払ってくれた。

 月岡ははっきりとは言わないが、珈涼に監視をつけている。だから珈涼がこんなところで倒れたら、月岡とその部下に迷惑をかけてしまうのは目に見えていた。

 珈涼は母にメールを打つと、どうにか立ち上がって部屋を出る。

 夜の闇が自分の姿を隠してくれることを祈りながら、不調を気取られないように早足で歩きだした。






 両親の家に着いた途端、珈涼は倒れるように眠った。そのまま、熱に浮かされて一昼夜過ごした。

 夢の中で、月岡と両親が話していた気がした。

 あの子はまだ子どもなのよ、と母が言っていた。

 少しあの子と距離を置いたらどうだ、と父が難しい顔をしていた。

「親父さんと玲子さんの仰ることはわかります」

 夢だというのに、月岡の声を間近に聞いて切ないくらいにうれしかった。

「ですが私は、絶対に珈涼さんから離れません。申し訳ありませんが、これは変えません。どうか見守っていてください」

 幸いひどい風邪ではなかったらしく、翌々日の朝には熱も下がったらしい。

「……彰大さん?」

 驚いたのは目を覚ました珈涼の枕元に、月岡がいたことだった。

「お帰りになるのは確か、明後日だったと……」

 月岡は苦笑してそれには答えず、体を起こそうとした珈涼を留めた。

 月岡は珈涼の脇の下に体温計を差して、熱をはかる間、珈涼の髪を撫でていた。

「七度二分。医者はじきに下がると言っていましたが、まだ今日は一日安静にしてください」

 月岡と両親の会話は現実のものだったのだ。いつの間にか医者も呼ばれていたらしい。珈涼はそれに気づいて、また月岡に迷惑をかけてしまったと申し訳なく思う。

「申し訳ないなんて、私に思うことはありませんよ」

 月岡がそう言ったので、珈涼は顔を上げる。

「ずっとあなたの成長を見守ってきました。あなたが体調を崩しても何もできない頃に比べたら、こうして駆けつけることができる方がずっといい」

「でも、今回は私のわがままで体調を崩したのですから」

「わがまま?」

 月岡は不思議そうな顔をする。

「どういうことですか?」

「清掃員の方を手配してくださったのにむやみに水場の掃除をしたり」

 珈涼は恥ずかしくなって目を逸らす。

「一人で眠るのが嫌だったから……体調が悪いのに夜に外に出たりして」

「……」

「ごめんなさい」

 月岡が黙ったので、珈涼はそろそろと月岡に目を戻す。

 月岡は困ったように笑っていた。

「私がいなくて寂しかったのですか?」

 珈涼がうなずくと、月岡は頬をかく。

「……困りましたね」

「ごめんなさい……」

「もっと困らせてください、珈涼さん」

 珈涼は瞬きをする。月岡は珈涼の頬をなでて言った。

「わがままを言って、迷惑をかけてください。私が珈涼さんから欲しいのはそういうものです」

「それなら……」

 珈涼は言いかけて口をつぐむ。月岡は待つように首を傾けた。

 一度迷ってから、珈涼は両手を伸ばす。

「……今すぐ私を、連れて帰ってください」

 月岡は身を屈めて珈涼を抱き起こす。

「もちろんです」

 風邪をひいた日は、月岡に悪くて、少し嬉しい。

 その日はいつもよりも月岡を困らせて、いつもより甘い日を過ごしてしまうから。

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