第5話 捏造

 その日、

「虫の知らせ」

 を感じたのは、家に帰る途中には、小さな神社があるのだが、そこの前を通りかかった時、違和感を感じた。

「その違和感が、どこから、どのように来るものなのか?」

 というものが、すぐに分かったというわけではなかった。

 ただ、

「目に怪しい光を感じた」

 というのが本音であり、それは、一瞬だけのことで、

「気のせいではないか?」

 と言われれば、それまでのことのように思えるのであった。

 というのも、無理もないことであって、その時にふと感じたのが、

「目まぐるしく変わる、紅葉の色のようではないか?」

 ということであった。

 そして、それが、

「飽きと秋」

 というダジャレを思い出させ、思わず苦笑してしまった自分がいるのに気が付いた。

 まわりに誰もいるわけではないのに、何か気になったりして、何とも不可思議な心境になっているのであった。

 その神社というものは、一種の、

「石ころのような存在」

 と、子供の頃から意識していた。

「目の前にあっても、変な意識を持つことはない」

 つまり、逆に、

「意識を押し殺している」

 という感覚なのかもしれない。

 だから、

「目の前に見えているのに、意識することはない」

 という、本来なら、

「なぜなんだろう?」

 という意識を持つはずなのに、スルーしてしまうのは、それだけ、違和感のなさが、その場の雰囲気を

「凌駕している」

 といってもいいのかも知れない。

 確かに石ころというと、イメージとして、

「河原にたくさん落ちているもの」

 という雰囲気である。

 堤防になっているところから、河原になっていて、雑草がたくさん生えていて、その策の川となっているところまで、大小さまざまな大きさや、形の石が、そのあたりに、ゴロゴロあるというものである。

 同じ、

「水辺」

 ということで、

「海」

 の場合は、まったく違っている。

 海辺というと、基本的にあるのは、二つである。

 一つは断崖絶壁のようなところであり、

「積年の間に自然の力でできあがったオブジェ」

 ということで、そのすごさには感服させられるというものであった。

 しかし、もう一つは打って変わって、

「何の変哲もない」

 といってもいい。砂浜が広がっているわけである。

 その砂浜は、きめの細かい砂であり。そこには、石ころがあったとすれば、目立つであろうと思えるが、実際にはない状態だといってもいい。

 しかし、ものが石ころだけに、

「あったとしても、目立たないんだろうな」

 という思いが強くなっていったのだ。

 しか、考えてみれば、この砂浜というのは、

「自然界のオブジェ」

 と言われた、断崖絶壁よりも、もっとすごいのかも知れない。

 こちらは、それこそ積年の間に。オブジェを作る以前に、元々は、石ころのようなものだったはずなのに、それを波と潮で、完全に粉砕し、言葉のごとく、

「粉々に粉砕した」

 ということになるのであろう。

 それを思うと、

「砂浜は、その静けさは、まるで、動かざるごと山のごとしとでもいうような感覚ではないだろうか?」

 そういう意味で、

「どこか石ころと似ている」

 と感じられ、

「河原の石ころと、砂浜の砂とでは、その元祖を同じとする」

 ということになるのではないだろうか。

 その日の、神社を通りかかった時、そこまで感じたということを、後になっても忘れていないのは、それだけ、その時に、

「石ころ」

 というものを感じた時、その発想が、砂浜に通じたということっで、

「何か、過去からの疑問が一つ解決された」

 という気がしたからではないだろうか。

 その後のことは、その感覚があったからなのか分からないが、決して、

「保身のために、でっちあげたことではない」

 といえることであった。

 その思いがいかなるものなのかというのは、その時は、あくまでも、

「虫の知らせ」

 でしかなかったのだ。

 そう、この時の、

「虫の知らせ」

 というのは、一つではなかった。

 一つ一つの場面で、それぞれに、

「虫の知らせ」

 というものが、用意されていたといってもいいのかもしれない。

 そもそも、

「虫の知らせ」

 というものは、言われていることとしては、

「未来に起こることを、直観的に感じるということではないだろうか?」

 これが夢であれば、

「予知夢」

 というものであったりするというもので、

 ちょっと違った見方をすれば、

「以前に、見たことがなかったはずなのに、以前にどこかで見た気がする」

 ということでの、

「デジャブ現象」

 というものも、その一つではないだろうか?

 そのメカニズムは解明されていないというが、

「虫の知らせ」

 にしても、

「予知夢」

 にしても、

「それは、人間が潜在的に持っているものではないか?」

 と考えるのは、おかしなことであろうか。

 というのが、どういうことなのかというと、

「人間には、超能力というものが備わっている」

 と提唱する人がいるが、その根拠として、

「人間は、自分の脳の、10%くらいしか使っていない」

 と言われていることである。

 それ以外の部分は、潜在的に持っていて、それが、自分の危機であったり、

「ここぞという時」

 であったりする場合に、初めて、効力を発揮するといってもいいのではないだろうか?

「虫の知らせ」

 や、

「予知夢」

 というのも、その脳の残りの部分が介在しているとすれば、別に不思議なことでもないでもないといえるだろう。

 つまりは、

「虫の知らせ」

「予知夢」

 というものは、

「一種の超能力のようなもの」

 といってもいいだろう。

 そもそも、誰も、口では、

「超能力」

 といっていて、その中にある、

「テレパシー」

「サイコキネシス」

 などというものを、言葉として知ってはいるが、それを調べてみようとまでは思わないのだ。

 なぜなら、

「潜在しているということは分かったとしても、結局それが役立つ時というのは、自分が危険に遭遇したり、特別な時でないといけないのだとすれば、なるべく感じたくもないことである」

 といっていいだろう。

 実際に、虫の知らせというのは、

「何かよくないことの前兆」

 として感じるものだといわれているからであった。

 そんな、

「虫の知らせ」

 がこの日は、最初から、

「前兆の正体というのは、神社ではないか?」

 という、一歩進んだ感覚があり、だから余計に、神社に対して、

「心得るもの」

 というものがあったのではないだろうか?

 それを思うと、

「超能力」

 というのは、あくまでも、自分に潜在するものなのだから、その本人に、コントロールできないものではないと考えるのであった。

 神社の明かりは、まるで蛍光灯のようだったのだ。

 神社に立ち寄ると、そこにあるのは、

「いつもよりも大きく見える、狛犬だった」

 狛犬というものは、

「左右で微妙に違うのではないか?」

 と思っていたがどうなのだろうか?

 確かにっ違うようにも見えるが、もし、それを、

「錯覚だ」

 と言われれば、言い返す力もなく、

「その通りだ」

 ということになるだろう。

 錯覚というのは、言い返す力がないだけではなく、

「人から言われると、その言葉を信じてしまう」

 というところがあったからだ。

「信じている」

 とう素振りを見せないと、相手に信用してもらえず。結局、

「マウントを取られて、一度言い返せなかったことで、次からは何も言えなくなるのだ」

 ということである。

「マウント合戦というのは、本当にタイミングが大切だ」

 ということであろう。

 マウントと錯覚というのが、別に関係のないことだというのは、当たり前のことであろう。

 しかし、

「一度マウントを取られてしまうと、二度と浮上できないと考えてしまい、相手の思っていることをすべて、正しいとして考えなければいけない」

 ということで、錯覚ではなくても、錯覚をしてしまったと思うのは、

「感覚がマヒしたからだ」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、神社で、

「狛犬が大きく見える」

 というのは、錯覚ではなく、理屈的には正しいことだと思えるにも関わらず、どうしても錯覚の類にしてしまいそうになるのだった。

 狛犬が大きく見えることが、

「どうしてなのか?」

 と考えたが、その理由が、

「影の部分が、クッキリと、さらにどす黒く見える」

 からである。

 どす黒さというのは、

「モノクロ部分をより立体的に見せる」

 ということから、まるで、大きな壁をスクリーンとした、影を後ろに投影されたものに見えることで、さらなる恐怖を感じさせるのだった。

 実際に映し出された影というのは、正面から見ていると、一番濃いところと、明るいところの差が激しいせいか、錯覚に陥りやすいほどの、大きさに錯覚を感じさせる。しかし、少し斜めになると、写っている形は、

「これほどいびつなものはない」」

 と思わせるのだが、それは、

「壁自体が、きれいな平面になっているわけではない」

 ということであるが、それは、ただの錯覚では済ませられないだろう。

 いびつな状態に見えるための、一種の援護射撃としては、

「まわりの明かりの曖昧さに、はっきりしないボンヤリとなっているさまが、映し出されるからではないだろうか?

 蛍光灯であったり、松明のようなものであったりすれば、その姿は、

「炎に揺られる形で、徐々に大きくなったり、小さくなったりと、その不規則性により、明るさというものが、曖昧になってくる」

 といってもいいであろう。

 暗くなった部分がより大きく見えるのは、

「モノクロ」

 という、

「最小限の比較対象しかないからではないか」

 と感じるのだった。

 そんな曖昧な明るさが、いずれ慣れてくる前に、頭痛となって、現れることがある。実に厄介なことであった。

 その頭痛は、社会人になって最初に感じたことだった。

 大学時代のバイトというと、田丸に限らずであるが、そのほとんどが、

「肉体労働」

 ということになるであろう。

「座っていると怒られる」

 という現場の仕事で、

「休んでいるくらいなら、掃除でもしてくれ」

 ということであった。

 しかし、それはあくまでも、

「慣れた人」

 にだけいえることで、

「それ以外の人には、何も言えない」

 ということであった。

 そんな田丸は、会社に入ると、最初は研修として、現場に背側されたが、事務処理としての管理業務から、先に覚えることになったのだ。

 椅子に座っての、伝票を裁くだけの仕事、それまでのアルバイトとは、

「真逆」

 だったのだ。

 これこそ、

「いったん前を向いて、先まで行きついた後に、戻ってくるということで、

「研修というのは、無駄だと思えることもあるんだな」

 と感じるのだった。

 頭痛のひどさは、前述の、

「飛蚊症」

 の時の症状と似たものだった。

 まったく同じではないということで、

「似て非なるもの」

 といっても過言ではないだろう。

 それを考えると、

「飛蚊症の症状」

 としては、最初に飛蚊症がきて、そこから、頭痛、吐き気をもたらすものが、

主だったが、逆に、

「最初に頭痛が来てから、飛蚊症になり。飛蚊症が収まってくると、今度は、吐き気が頭痛に伴ってくる」

 というものもあった。

 多いのは前者であるが、後者も決して少ないわけではない。

 それを思うと、

「頭痛だけが、問題というのではない」

 ということが分かるというものであった。

 今回は、珍しく、後者だった。

 前者には、発生のパターンがあるわけではないが、後者であれば、

「雨が降っていない湿気のない状態であるにも関わらず、湿気が感じられ、意味もなく、汗がにじんでくる」

 ということになった時などに、襲ってくるものだったりするのだ。

 それを思うと、

「頭痛というものに、なぜ吐き気が付きまとうのかというと、汚物のような臭いを、どこかの瞬間で感じるということになるからであろう」

 ということであった。

 しかし、一度、汚物の臭いを感じると、最初は

「頭痛や吐き気がなくなれば、自然と感じなくなるだろう」

 と思っていたが、ちょっと甘いようだった。

 臭いのひどさが、どのように、襲ってくるのかということは、そのものの臭いだけではなく、空気環境や、自分というものに対してだけだとは言えないのではないだろうか?

「雨が降り出すと、それまで、全然雨が降っていない時というのは、石のような、気持ち悪い臭いがしてくる」

 と感じるのも、無理もないことかも知れない。

 飛蚊症というのは

「いかに目の集中力というものを阻害させるか?」

 ということになるのであろう。

 そんな田丸だったが、今回は、頭痛が先に起こったことで、最初は、

「飲みすぎたかな」

 と感じたのだった。

 しかし、飲みすぎという感覚ではなく、頭の重たさは、あまり酔いが回った時と変わりなかったが、

「気持ち悪さを伴う吐き気」

 というわけではなかったのだ。

 酔いつぶれた時の気持ち悪さは、

「吐けば楽になる」

 と言われるが、頭痛を伴う、

「酔いからくるものではない場合」

 というのは、吐いて楽になるわけではなく、吐かない方がいいくらいだということもあるくらいだった。

 それを、ハッキリとした形、つまりは、信憑性のある形にできないというのは、どういうことになるというのであろうか?

 影が壁に映った時の揺らめきが、一瞬、大きくなったかと思うと、その場所の明かりが消えたのか。急に暗くなったのだった。

 どうすればいいのかということを考えていると、その向こうに見えるものが、何なのかと思うと、

「見たくない」

 と思っているはずなのに、そこにあるのが、まるで、幽霊のように、うごめいていることで、見ない方が却って気持ち悪いと感じるのだった。

 実際に行ってみると、

「何か黒いものが蠢いている」

 と感じた。

 しかし、その蠢きというのは、光の関係での錯覚だと思うと、その物体が、動くものではないと思ったのだ。

 さすがに、うねうねと蠢いているよりは、微動だにしない方が、気持ち悪くないというのは、歴然とした事実で、目の前に見えている光が蠢いていることで、気持ち悪く感じたのだろう。

 それを感じると、

「俺って、臆病だったんだな」

 と感じたのだ。

 子供の頃というと、とにかく、臆病だった。

「いじめられっ子だった」

 というのは、

「人の気も知らずに、言わなくてもいい一言を言ってしまうことが、一番の原因だった」

 ということであった。

 それはそうであろう。

 相手に気を遣うこともなく、ズケズケと言われれば、悪気はないと分かっていても、だからと言って、許せるわけではない。

 それを考えると、いじめられっ子としてのもう一つの理由があると分かっていても、それがどういうことなのかということは気づかないだろう。

「長所と短所は紙一重」

 というが、

「近いと思っていることでも、近づいてみると、実はすぐそばだった」

 というような、

「灯台下暗し的」

 ともいえることもあるのではないだろうか。

 そんな状態で、

「冷たくその場所に佇んでいる」

 というものが何であるか、すぐに、分かった気がしたのだ。

 しかし、さすがにすぐに近づく気がしなかった。

 動かないといっても、

「本当に死んでいるのか?」

 ということが分かることではない。

「死んでいるのであれば、警察、生きているのであれば、救急車」

 ということであるが、そもそも、そこに蠢いているのが、

「本当に人間なのか?」

 ということが、まずは、最初の問題である。

「警察に通報したら、動物だった」

 ということであれば、別の意味での問題にはなるのだが、警察とすれば、

「うちの管轄ではない」

 ということになるであろう。

 確かに、警察ではなく、基本的に動物であれば、保健所の管轄であろう。

 しかし、

「動物であろうが、人間であろうが、死体であれば、生きているものとは区別されて、管轄も違う」

 ということである。

 しかし、動物の遺体というのは、

「廃棄物として処理される」

 ということになる。

 つまりは、

「ゴミ扱い」

 ということになるのだ。

 何といっても、ゴミ扱いにするのは、どうなのだろう?

 ということであるが、もちろん、飼い主が、よほどいい人で、お金に余裕もあれば、ちゃんと荼毘にふして、動物の、

「霊園」

 のようなところで、

「永遠の眠りにつかせてあげる」

 ということになるべきなのであろうが、実際には、そんなこともない。

 飼う時には、

「癒しを求めて」

 ということで飼い始めたのだろうが、癒しの元になっている、たとえば、

「孤独の原因が取り除かれ、誰か、パートナーガできて、しかも、その人が動物嫌いであった」

 とすれば、

「その運命は、過酷なものになるに違いない」

 ということであろう。

「隠蔽」

 と、

「捏造」

 というものは、

「どこが違うのだろう?」

 ということであるが、明らかに違っているのは、

「隠蔽」

 というのが、事実を隠すということであり、

「捏造」

 というのは、事実ではないものを、あたかも事実であるように、ごまかすことである。

 こちらは、一種の、

「減算法と加算法」

 という考え方に似ているのかも知れない。

 隠蔽は、完全に存在している事実を、何とか隠そうとするものとしての、

「減算法」

 であり、

 捏造というのは、よくあるのが、

「文化遺産」

 などの歴史上の発見を、由緒あるものにしたいとして、いろいろ研究炉分などで、

「由緒ある人の発表として、あたかも真実のように言わしめることである」

というのが、捏造で、

「事実ではない」

 ということを、

「ゼロからの出発」

 とすれば、あくまでも、加算法でしかないということであった。

 ただ、本当は、

「事実ではない」

 という時点で、

「ゼロからの出発」

 ということではなく、最初から、

「マイナスからの出発だ」

 と言ってもいいだろう。

「加算法と減算法」

 という考え方は、

「囲碁と将棋」

 という考え方に似ているのかも知れない。

 将棋というものの話で、

「一番隙のない布陣は、どんな布陣なのか?」

 と聞かれたとすれば、その答えは、

「最初に並べたあの布陣なんですよ」

 という。つまりは、

「一手指すごとにそこに隙が生まれる。隙が生まれないと、最終的に上手な人と同士であれば、勝ち負けを決することができなくなる」

 ということになるのではないだろうか?

 それが、将棋というものであり、囲碁のように、

「陣地を争うもの」

 としてでしか、勝敗が付かないものになってしまうのではないだろか?

それを考えると、

「将棋というものは、どれだけ先を読めるか?」

 ということであるので、当然、相手があることなので、相手が、こっちの想像したのと同じであれば問題ないのだが、違ってしまうと、先を読むどころか、自分の考えを改めるための時間も必要になるというものである。

 田丸は、

「隠蔽」

 と、

「捏造」

 では、どっちが嫌なのか?

 と聞かれたことがあった。その時は高校の時だったので、

「隠蔽じゃないか?」

 と答えた。

 正直、隠蔽というのは、よくニュースなので、聞かれる言葉で、

「政治家などが行っているイメージがあるので、下手をすれば、俺たちの生活に密着しているということで、その馴染みがあるのではないだろうか?」

 と感じるのであった。

 しかし、

「捏造」

 というのは、どちらかというと、

「文化遺産などの事実でないものを、改ざんしたり、して、あたかも、真実であるというような形にする」

 ということで、

「事実を捻じ曲げる」

 ということで、ある意味、

「騙す」

 ということでは、

「たちが悪いのではないか?」

 と言えるだろう。

 しかし、実際には、

「文化遺産」

 であったり、

「考古学などの、学術資料」

 ということで、いかんせん、馴染みが浅いといってもいいだろう。

 そうなると、捏造というのは、

「聞こえとしては悪いが、しょせんは、他人事だ」

 ということになるのであろう。

 捏造を、改ざんと考えるのであれば、もっと、身近なところでもあってしかるべきなのだろうが、その場合は、

「捏造と言わずに、改ざんという」

 ということで、余計に、

「捏造」

 というものは、余計に、馴染みがなくなってしまうということになるのであろう。

 とは言っても、何も確認もせずに、このままいたずらに時間を費やすというのはいいことではない。

 何といっても、

「これが事件なのか、事故なのか?」

 ということもあるだろう。

「息をしていないように見えるが、果たして、本当にそうなのだろうか? 本当は、生きていて、ただ、動いていないだけなのではないか?」

 そんなことを考えていると、

「とにかく、早く確認しなければ」

 と思い、気持ち悪いのは、無理もないとして、マスクもしていることなので、なるべく、口や鼻を覆うようにいして、覗き込むのだった。

 ちょうどその時、空気が流れたような気がした。風が吹いてきたのだった。少しありがたいと思ったが、

「まさか、誰かが来たのでは?」

 という別の意味での恐怖が頭をよぎったのである、

 もし、こんなところを見られたら、別に悪いことをしているわけではないのに、まるで、自分が、殺人犯であるかのように、自分が錯覚しそうで、もし、警察に尋問でもされれば、別にやってもいないのに、警察から、

「怪しい」

 と思われて、どうしていいのか分からなくなってくるのだった。

 というのも、

「 とにかく、

「怪しまれることにかけては、人に引けを取らない」

 というようなおかしな自信を持っているといってもいいのだろう。

 田丸は、それを思うと、

「少々気持ち悪くても、あとのことを考えれば、今確認するしかない」

 と思って覗き込むと、そこで倒れている人に見覚えがあった。

 見覚えがあったというだけの問題ではなく、

「今日、俺はずっとこの人を待っていたんじゃないか?」

 という思いであった。

 女将さんからも、

「変ねぇ」

 と、今日は来ないということが決定している比ではなかった。

 女将がいうには、

「あの人は、来ないということが決定している日でなければ、たいていの時、来ないことはないんだけどね。私の中では、皆勤賞ものなのよ」

 ということであった。

 田丸は、黙って頷いたが、今までの爺さんの行動パターンを考えれば、まさにその通りだったのだ。

 田丸があの店に通い詰めるようになってから、数週間であったが、他の人が、

「神出鬼没」

 といっていいほど、

「いつ来るか分からない人が多い」

 ということであったが、ただ、あの老人の場合は、

「ほぼ毎日来ているように思えるので、神出鬼没などという言葉が当てはまることはなかったのだ」

 ということである、

 だから、今日、こなかったのは不思議だった。

 女将がいうには、

「あの人は、遅れるということもあまりなかったので、最初の30分で来なかった時は、「ほぼ間違いなく来ないな」

 ということがわかったのだった。

 女将の話を聞いているうちに、

「自分も、もっと前から、あの老人と仲が良かったかのような錯覚に陥るのだった」

 と感じた・

 女将というのは、

「本当に客のことを皆覚えているんだな」

 と感じたのは、田丸が、人の顔を覚えるのが苦手だったからだった。

 だから、いつも、待ち合わせをする時も、相手に声をかけてもらうようにすることが大切だと思っていたのだった。

 確かに、そこに倒れている老人は、すでに死んでいた。さすがに指紋がついてしまうといけないので、触ってみるまではしなかったが、顔色も土色になっていて、何よりも、まるで恨みに満ちた目が、虚空をにらんでいるようで、目をカッと見開いたまま、閉じることもなかったのだ。

 推理サスペンスドラマなどでよく見る、いわゆる、

「断末魔の表情」

 というべきであろうか?

 それを思うと、

「よく最初に見た時。あの老人だと思ったものだ」

 ということであった。

 だが、とにかく警察を呼ばなければいけない。頭の中がパニックになりながら、それだけは絶対にしなければいけないことであり、しかもなるべく早くしないといけないことも分かっていた。

 とりあえず、警察に110番に電話をし、警察が来るのを待つしかなかった。

 当然、かけなければいけない電話であったのだが、掛けた後に、激しい後悔に襲われた。

 それはまるで、

「急に現実に引き戻されたかのような気分にさせられたから」

 ということであった。

 それは、なぜかというと、

「警察が来てから、どのように説明すればいいのか?」

 ということである。

 目の前に死んでいる老人の死因が、胸にナイフが突き刺さっているとで、刺殺であることは、明白であろう。

 もちろん、その前に首を絞めていたりしたのかも知れないが、

「胸を突き刺したことに変わりはない」

 といえる。

 そして、もう一つ言えることは、

「自分は返り血を浴びていない」

 ということで、少なくとも犯人ではない」

 ということは信じてくれるだろう。

 しかし、警察はそれで、嫌疑を辞めることはないと思う。

 その一つの理由として、

「自分と、この老人が知り合いである」

 ということを、すぐにでも突き止めるだろう。

 そうなると、警察は、自分が死体を発見したことに対して、かなり追及してくるに違いない。

 それは、

「君はこの老人をつけていたのか?」

 と言った、

「ストーカー容疑」

 であったり、

「まさか、君も何か、被害者に恨みでもあって、あわやくばなどということを考えていたんじゃないか?」

 と言われるのではないかと想像した。

 しかし、実際には、そんなことはなく、

「そもそも、俺はあの人の何を知っているというのだ?」

 ということであった。

 殺意に結びつくほどの動機があるほど、その人のことを知っているわけではない。そもそも、名前すらしらないではないか。もちろん、その人の話を女将さんに聞いたとしても、女将さんが、べらべら、人の個人情報を離すわけがない。そんなことをすれば、

「女将失格だ」

 ということになるであろう。

 それを思うと、田丸は、

「自分に動機などあるわけはないので、安心だ」

 と思ったのだが、ただ、このままでは、本当にただの、

「死体の第一発見者」

 というだけで済まされるかどうか分からなかった。

 そこで思い出したのは、先ほどの、見えなかったが、影のようなものであった。

 正直、なんとなく雰囲気的に感じたものがあったが、それを警察に正直に答えていいものだろうか?

 ということであった。

 田丸は、

「正直に答えるしかない」

 と思った。

 そうでないと、結局自分が犯人にされてしまうということが分かり切っているということだからだ。

 何といっても、その男が通り過ぎていったのは間違いない。

 ただ、一つ気になるのは、

「あの男の死亡推定時刻だった。

 実際の推定時刻から、相当な時間が経っていれば、ここから誰かが立ち去ったとしても、それは、犯人ではなく、

「自分よりも前に発見していて、どうしようか迷っているところに、自分が来たことで、とっさに逃げてしまったというのも、あり得ることだ」

 ただ、いくら気が動転していたとしても、その場から逃げてしまうというのは、致命的なことではないだろうか?

 しかし、その人物のことを正直に言わないと、

「こっちが余計な疑いをかけられる」

 ということである。

 それを無理に、どうしようもないかのように考えると、

「やはり、警察には正直にいうしかない」

 ということになるのだ。

 正直に警察にいおうとすると、今度は曖昧にしか見ていなかったので、それをどう説明しようかということまで考えてしまうと、頭の中が、堂々巡りをくりかえすようになったのだ。

 そのせいもあってか、結局、何も言えなくなり、それが、結局、警察の睨みによって、

「言わなければいけなくなった」

 ということになったのだ。

 そうなると、一度、

「隠蔽しよう」

 と思ってしまったといううしろめたさから、

「話さなければいけない」

 という義務感に襲われ、それが、

「強迫観念」

 となって襲い掛かってくるのであった。

 しかも、その強迫観念が、自分自身を、すべてにおいて、

「自己否定」

 というのを誘発することになるのだ。

 いったん、自己否定をしてしまうと、

「どうにもならないな」

 と感じるようになった。

 というのも、

「元々、自分に、自信というものが備わっていたわけではないが、何かのきっかけで、自分に自信をつけることがあれば、その時は、うぬぼれが激しいと思うくらいに、過激に自惚れてしまうものだった」

 ということであった。

 だから普段は、

「謙虚にしておかなければいけない」

 という思いと、それだけでなく、

「なるべく普段は、誰とも波風を立てないようにしておこう」

 と考えるようになったのだ。

 だから、最初から、

「捏造」

 などという大それたことを考えていたわけではない。

 そもそも、捏造という言葉に深い印象もなければ、

「そんな言葉とは、無縁だ」

 とも思っていた。

「捏造というよりも、偽造と言った方がいいか?」

 とも思ったが、どうも少し違うようだ。

 ただ、今言っておかなければ、記憶というのは、どんどん曖昧になってしまって、少しだけでも思い出せるものも、思い出せなくなる。そうなると、本当に、

「すべてにおいての、捏造となってしまうのだ」

 と思ったのだ。

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