第4話 真逆
そんな中において、田丸は、自分が、いかにうまく立ち回るかということを考えて、
「卑怯なコウモリ」
の話であったり、
「優等生の中に埋もれてしまった、歪んだ精神状態」
というものを考えると、
「自分がどれだけ、卑屈な人間だったのか?」
ということを思い出した。
あれは、小学生の頃だっただろうか。今でもトラウマになっていることがあった。
というのは、小学生の頃に、ドラマなどであれば、
「よく聞く話」
であったが、
「ある日学校で、教育費を盗まれる」
というのがあった。
ちょうど体育の授業で、教室が空になる時間があったのだが、その時、誰かに物色されたらしい。
ただ、教室の防犯カメラがあるわけもなく、盗まれたとしても、その現場がとらえられているわけではない。
昔から、ドラマなどであるのは、
「狂言窃盗」
ということがあったようだ。
しょせん、
「子供の浅知恵」
というべきか、子供だけに、深く考えるということがないのである。
要するに、
「給食費がなくなった」
ということで、
「誰かに責任を擦り付ける」
という考えからであるが、
「それだけ、恨みに思っている人もいる」
ということであろう。
ただ、それだけのために、いくら、
「子供の浅知恵」
といっても、
「やっていいことと悪いこと」
の判断くらいはつくのではないかということである。
少なくとも、
「一人の犯罪者を作り上げる」
ということである。
それも、本当に何かをやったのであれば、それも、百歩譲って、
「しょうがない」
といえる部分もあるのかも知れないが、
「犯罪者をでっちあげる」
ということが、どういうことなのかということをまったく分かっていないということで、
田丸は、当然のことながら、
「罪の意識」
など、かけらもなかったといってもいいだろう。
ただ、実際に人に罪を擦り付けるというのは、いくら、
「罪の意識はない」
といっても、
「何となく気持ち悪い」
ということになるのだ。
実際に、罪の意識はないだけに、
「この気持ちは何なんだ?」
というものだった。
「後悔?」
とも感じた。
「人に対してなのか?」
それとも、
「やってしまったことに対してなのか?」
ということが分からなかった。
人に対してであれば、最初から、
「罪の意識」
というものがあるのだろうが、
「人に対して」
ということでなければ、罪の意識もないだろう。
ということになると、
「罪」
ではなく、行為という意味でいけば、ひょっとすると、心の中に、
「自分がやられたらいやだろうな」
という思いがあるのだろう。
普通、人は、
「自分がやられると嫌だ」
ということに気づかないから、こういう行為を平気でしてしまうのではないだろうか?
それは、
「罪の意識はありながら、それでもしてしまうということの理由の一つではないのだろうか?」
ということであった。
実際に罪の意識が、あるのであれば、本当なら、犯罪など犯さないというものではないだろうか?
しかし、これが、
「殺人罪」
などということになると、
「背に腹は代えられない」
という人もいる。
「明日の食べるものがない」
であったり、
「ホームレスになるしかない」
あるいは、
「借金取りに追われている」
などという、切羽詰まった状況に、リアルな状況が突入すれば、どうしようもないということになるであろう。
もう一つは、
「復讐に燃える」
という動機の場合は、これは、切羽詰まったリアルな現状というのとは少し違い、精神的なものからくるものなので、
「世の中に対して、少し目線の高さが違っているのかも知れない」
といえるだろう。
今の世の中、
「どこで誰に恨まれているか分からない」
といえる。
特に、ネットが普及してからこっち、誹謗中傷なるものも、結構大きな問題となっていて、誹謗中傷をすることで、
「いかに、世の中を悪く書いたとしても、日意図を誹謗中傷したとしても、ネットの世界は、匿名性なので、やりたい放題だ」
ということであった。
しかし、それも次第に、
「誹謗中傷によって、自殺をする」
という人が増えてきたことで、もう、
「個人情報の保護」
ということを理由に何もできない時代ではなくなってしまったのである。
要するに、個人情報において守られるべきものを見失ったことで、
「なんでもかんでも、個人情報だ」
ということでの風潮が大きくなったのかもお知れない。
それによって
「どこまでが許されるのか?」
ということも曖昧になってきた。
そもそも、犯罪に関係してくることなのだから、
「どれも悪いこと」
に相違ないのだろうが、その境界線をしっかりしいておかないと、
「復讐心に燃える」
恨みの塊のような人間は、それこそ、何をするか分からないということになるだろう。
そんな人が世の中にあふれることから、誹謗中傷なども起こっていくのだろう。
そもそも、
「リアルでは、人と口を利くこともできないくらいの人だからこそ、匿名を理由に、誹謗中傷ができる」
というものである。
しかし、誹謗中傷というのは、
「いくらでもできる」
ということを、無限だと考える人がいるから、また厄介なのだ。
これと似ているものとして考えられるのが、
「ストーカー事件」
ということではないだろうか。
相手の家をつけて確かめたり、夜間に無言電話を掛けたり、玄関先にごみをぶちまけるなどという行為を繰り返す人もいれば、
「好きだ」
「愛している」
という言葉を、メールなどで、無数に送り付けるというやつもいたりする。
一種の、
「愉快犯」
というべきか、
「相手が困っている姿を見ることが快感」
ということで、本当に恋愛感情があるのかどうなのかというよりも、それ以上に、相手の反応を見たいということで、それを恋愛感情だと勘違いしているのだとすれば、それは実に難しいことだといえるのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「ストーカーというのは、愉快犯に分類されてもいいかも知れない」
と感じる。
ということは、
「これは、頭のいい犯罪ではない」
ともいえるだろう。
結局、
「ストーカー防止条例」
というものが、
「あまりにも遅い」
と言われることになるだろうが、何よりも、
「いずれは制定されるものだ」
ということなので、ストーカーというものも、永遠に続けることができないもの」
ということで、問題になったとしても、その大きな影響は、社会問題になった時点で、
「その人の人生は終わり」
なのである。
確かに、最初の頃は、法整備もされていないので、
「警察は何もできなかった」
もっとも、
「今だって、ほとんど何もできない」
というのが当たり前ということだ。
「できない」
というよりも、
「しようとしない」
と言った方がいい。
この、ストーカー問題にしても、誹謗中傷問題にしても、
「個人情報保護の観点」
ということが、その裏に潜んでいるので、
「何もできない」
というのは、そこに抵触することが問題なのだろう。
しかし、実際に、
「問題が起こっているのだから、何もできないというのは、警察官としても、苛立ちが残り、ストレスになるかも知れない」
皆が皆同じだとは思えないが、考え方の違いだといってもいいのではないだろうか?
そんな中において、自分を、
「卑劣な人間だ」
と、自分を追い詰めるような考え方をしていると、家に帰ろうとしているところで、その日は、帰りにいつもの居酒屋に立ち寄って帰ったのだが、その時間もいつもと変わりない時間だったが、いつもよりも少し遅く感じたのは、
「いつもの爺さんがいなかった」
ということからではないだろうか?
いつもの爺さん」
というのがいないと、寂しいという感覚は、別にその爺さんと仲が良く、
「いつも話をしているからだ」
というわけではなかった。
どちらかというと、
「その爺さんがいてくれると、安心できる」
という感覚で、爺さんが、一言いうと、納得もしていないのに、
「うんうん」
と頷いている自分がいるのだった。
爺さんは、名前を、
「やまさん」
と言われていた。
それこそ、まるで、昔の刑事ドラマの刑事につけられたニックネームのようではないか。それが、
「昭和の刑事ドラマ」
と言われるもので、
「中身は変わっていないが、時代を思わせる」
というものだ。
取調室では、
「別件逮捕」
で、逮捕した容疑者を、
「吐け」
といって、強引に脅迫めいたことをして、苦しめている様子を思い出すのであった。
今そんなことをすれば、
「コンプライアンス違反」
ということになるだろう。
だから、昔もそうであるが、容疑者は、取調室に入ると、
「弁護士が来るまで、何もしゃべらない」
ということになるのだ。
弁護士というのは、
「依頼人の利益を守ることが最優先」
ということなので、容疑者にとっては、
「一番ありがたいことだ」
といってもいいだろう。
警察も昔のように、
「自白の強要」
ということはできなくなってしまった。
昔の昭和の警察というと、刑事ドラマであるように、
「強引に、拷問に近い形で、自白を強要させたり、逆に、かつ丼を与えて、何とか説得しようとする」
という、そんな、
「餌で釣る」
ということも今はできないであろう。
しかし、今の時代になると、
「弁護士の入れ知恵なのか、裁判でひっくり返される」
ということになるのだ。
つまりは、裁判で、
「警察に自白を強要された。本当はやっていない」
と、罪状認否を聞かれた時に答えればいいのだ。
だから、昔であれば、、
「自白」
というのが、物証に近いくらいであったが、今では、逆に、
「ひっくり返される理由」
にされてしまう。
だから、自白は、
「物証に対して、補足的なもの」
ということくらいにしておかなければならない。
たとえば、
「物証だけでも、起訴できるが、容疑者に、動かぬ証拠を突きつけることで、言い逃れはできない」
と思わたところでの自白であれば、理論的には通っているので、弁護士も、それで裁判をひっくり返すなどということはできないに違いない。
そんなことを考えていると、
「
「今日どうして、老人がいなかったんだろう?」
と考えてしまう。
老人がいなかったことくらいで、こんなに気になることもないはずなのだ。何といっても、それほど親しい仲ではないからであろう。
田丸としては、
「何かの虫の知らせ」
のようなものがあったとしか言えないのだった。
帰り道というのは、途中までは、商店街があったりして、もちろんシャッターは閉まっているのだが、それほど不気味な感じはしない。
しいていえば、
「カツンカツン」
という乾いた音が、アーケードや、シャッターに反射することで、余計に音を倍増させているように思えてならないのだった。
「いつもの帰り道」
ということで歩いていたのだが、アーケードを抜けたところから、急に寂しくなり、普通の人なら、
「怖気ずく人もいるかも知れない」
と感じるものだった。
しかし、
「これまでに、ずっとこの道を歩いてきて、慣れている」
というのはあるからか、
「怖さもなくなってしまった」
というか、本当であれば、
「感覚がマヒした」
というべきであろう。
そもそも、臆病な田丸だったが、
「それとこれとは違う」
と思っている。
というのは、
「今感じている臆病な気持ちは、子供の頃の苛めを思い出すから」
だったのだ。
大人になってから、
「少しずつ分かってきた気がする」
ということであったが、それが、どういうことなのかまでは、正直分かってはいなかった。
「幽霊や妖怪、あるいは、サイコパスなホラー」
を恐怖と感じることもあるが、
「まわりのプレッシャーがトラウマになったりして、それが恐怖として、根付いてしまった」
というのも、完全な恐怖心を掻き立てるというもである。
田丸の場合は、子供の頃は後者で、大人になって前者だった。
もし誰かにいうと、
「お前変わってるな」
と言われることだろう。
だから、誰にも言わないでいると、人と話すこと自体が、億劫になってくる。
「俺って変わっているんだろうか?」
と、結局はそう思うのだった。
その日は、何か、恐怖に対しての、
「虫の知らせ」
のようなものがあった。
最近では、この辺りの寒さが身に染みて感じられるようになっていたのだが、そのことを田丸は、よく分かっていた。風の強さもさることながら、雨も降らずに、乾燥している空気は、夏のそれとは、まったく違う。
特に最近では、
「秋というものがなくなってきたような気がする」
とよく言われるが、それはきっと、夏の間が長いからではないだろうか?
「7月あたりから、猛暑日が続き、盆明けくらいから、少しずつ猛暑日は減ってくるが、そこから1か月ほどは、30度以上の真夏日が、
「長すぎる残暑」
として、その言葉どおりに、残っているのだった。
だから、
「秋という季節」
を感じるようになるのは、10月でも、中旬くらいからのことなので、今度は、12月に迫ってくると、今度は、初冠雪であったりと、冬に突入することになるのである。
秋というと、どうであろうか。
「寂しい季節」
という印象があるが、どうなのだろう?
田丸は、確かに秋を、
「寂しい季節」
という認識で持っていたのだが。その理由として、
「秋という季節は、飽きがくるからではないか?」
というダジャレで感じていた。
といっても、これは一種の、
「逆の発想」
であり、決して、
「飽きがくる」
とは思っていない。
逆に、
「飽きさせない季節が秋なのだ」
と思っている。
というのは、飽きの代名詞として、
「紅葉」
というものがあるだろう。
紅葉は、どんどん色を変えていく、一週間経てば、そのあたりの景色は一変するだろう。だから、
「飽きの来ない季節」
ともいえるが、それはあくまでも、
「見ている自分たちだけが感じるものだ」
ということであり。実際に、
「彩を醸し出している」
という紅葉の側からすればどうであろう?
本当は、その中に、自分にあった形の
「季節の色」
というものが存在していて、それが、紅葉の中での、
「昆虫でいうところの成虫」
のようなものだとはいえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「紅葉というものは、見ている側と、演じている側で、その心理の想像を許されるのだとすれば、真逆なのではないか?」
と感じさせるのではないだろうか?
紅葉を見ていると、
「秋はあっという間である」
ということと、
「飽きもあっという間だ」
とも一緒に感じる。
しかし、この言葉は逆にも受け取れる。
飽きというもの自体が、あっという間なのに、それが、あっという間に過ぎてしまうということは、
「マイナスにマイナスを掛けることで、プラスになるのではないだろうか?」
これは、加算であれば、
「お互いの数字によって変わってくるものであるが、
「必ずプラスになるわけではない」
ということなのであって、しかし、これが掛け算ということになれば、必ずプラスになるのだ。
「本当に算数というのは面白いな」
と感じるのだが、だから、小学生の頃から、算数が好きだったのだということを、いまさらながらに思い出させるのであった。
そんな寒さも、夜には特に感じられるようになり、店を出るまで、あれだけポカポカしていたのは、日本酒が身体を回っていたからだろう。
しかし、その日本酒というものも、完全に身体をめぐってしまうと、今度は、外気に特に敏感に反応してくるのであった。
寒さが身に沁みるのは、
「覚めた酔いというのが、そのまま、身体を通りぬける風になったかのように感じられ、暑さと寒さのバランスが、今度は足し算のように、プラスになったり、マイナスになったりしているようだが、最終的には、マイナスに落ち着くことで、寒気が震えとなって、襲ってくる」
ということであった。
「こんなことなら、飲まなきゃよかった」
と思うのだ。
しかし、元々は、帰り道にて、風の冷たさに、居酒屋のおいしい煮込みの匂いがしてくれば、その誘惑に勝てるだけの意志はなかった。
そもそも、
「行かない」
という選択肢自体がなかったのだ。
「お金がもったいない」
という気分もなかったし、
「酒を飲みたい」
というよりも、
「居酒屋の雰囲気を味わいたい」
という思いが強かったのだ。
居酒屋というものが、自分にとって、いかにありがたいものであるのかというのは、幼少期から、いじめられっ子だった自分が、こうやって馴染みの店を持つことができるというのが嬉しかったのだ。
しかし、だからといって、常連の輪の中心にいたいとは思っていない。
それよりも、まわりがどのような雰囲気になり、
「なぜゆえ、楽しいと思うのか?」
ということが知りたいと感じるのであった。
「きっと、誰か一人の、必ず集団があれば、一人はいるという、輪の中心になりたがる人」
のことである。
しかし、子供の頃は、一つの団体で、そういう。
「輪の中心にいたい」
という人は一人だけだとは限らない。
複数いてもしかるべきで、実際に、中学生くらいの頃から、一つの団体で、派閥のようなものができたことで、
「団体が分裂する」
ということも普通にあった。
完全に、
「空中分解してしまった」
といってもいいくらいの連中がいて、そのせいもあってか、
「輪の中」
というものが、
「いかに不思議なものであるか?」
と感じさせ、大人になった自分が、
「それでも、輪の中心は嫌だ」
ということで、ある意味、派閥の中を、
「逃げ回っていた」
のかも知れない。
それこそ、まるで、
「卑怯なコウモリ」
のようだが、
「それの何が悪いというのか?」
助かりたいと思うのは、人間の本能で、備わった身体の特徴を使って、詭弁かも知れないがそれで逃げられるのであれば、何が悪いというのか?
そもそも、動物には、身体の特徴として、
「天敵などを寄せ付けないようにするために、持って生まれた特徴があったりする」
という。
それが、
「保護色」
であったり、
「ハリセンボン」
などのように、身体全体を覆っている針だったりするわけではないか。
何も身体的に自分を守るだけの特徴がないコウモリは、
「見た目」
ということで、保身を図ったとして、それを、
「何の卑怯だ」
というのか、
それを思うと、そもそも、何が卑怯なのかということを思えば、不思議で仕方がなくなるのであった。
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