第3話 卑劣
その日は、結局、いつもの老人は現れなかった。今までに現れないこともあっただろうから、別に必要以上に気にすることはないのだろうが、その日は、何やら気持ち悪い感覚が、襲ってくるのであった。
その日は、やはり、気持ち悪い要素があったのだろうか。
「あの老人は来ないのではないか?」
という気持ちがあったのだ。
そもそも、体調が悪い日というのは、それだけではなく、子供の頃にあった、
「小学生の頃の、飛蚊症」
というものが絡んだ頭痛を思い起こさせるのであった。
そもそも、自分が飛蚊症の頭痛に襲われるようになったのは、
「当時、いじめられっ子だったからではないか?」
と感じるようになっていたのだ。
小学生の頃の自分は、今から思えば、
「虐められても仕方のない」
といえる少年だったのではないかと思うのだ。
いつも目立ちたがり屋なところがあり、友達が何も言わないのをおいいことに、いつも出しゃばったかのような言い方になることで、自分の知らないところで、いろいろいうやつもいたりした。
しかし、直接的にかかわった人は何も言わないので、田丸自体は分からない。
だから、田丸は、
「自分が悪いことをしている」
とは思っていない。
しかし、他の連中で、小学生でも、
「虐めっこ予備軍」
と呼ばれる連中からすれば、
「とにかく、俺たちが被害を被っているわけではないが、あんな非常識な奴は許せない」
ということで、いじめに走ることになるのだ。
確かに、苛めというのは、悪いものであるが、あの頃にまわりに掛けていた迷惑を考えると、
「虐めたくなる」
というのも無理もないことであった。
しかし、そんな苛めを受けるのも、よく考えれば、
「当事者でもないのに」
とも感じるのであった。
ただ、虐められることで、
「いかにまわりに対して、うまくやっていくか?」
という選択肢が少なくなっていくのであった。
これは、少し前にあった、
「自粛警察」
なるものを、発想が似ているといってもいいだろう。
自粛警察というのは、数年前に起こった、
「世界的なパンデミック」
というものを思い出させるもので、あれは、日本が、
「緊急事態宣言」
なるものを発令した時に、端を発するというものであった。
我が国日本では、
「日本国憲法」
にある、
「基本的人権の尊重」
ということと、
「戦争放棄」
という条文から、大日本帝国時代にあった、
「戒厳令」
というものが、あってはならないという国家になったのだ。
他の国のように、
「ロックダウン」
と言われる、
「都市封鎖」
というものは、日本ではありえない。
海外のロックダウンでは、外出禁止令などということを、出すことができる、
それは、昔の時代であれば、日本でも、
「有事になれば、国民の権利の一部を国家が制限し、もし守らなければ、罰則を与える」
というものであった。
その有事というものは、
「戦争」
はもちろん、
「災害」
などもその一つになるもので、それは、今回の
「世界的な伝染病」
というのも、当たり前に含まれるということであろう。
だが、日本では、
「戦争というものは、ないかも知れないが、災害はある」
といえるだろう。
むしろ、日本というのは、地震大国と言われるように、災害もそれなりに多い。
それを思うと、
「日本という国は、本当に、お花畑だ」
といえるだろう。
確かに、平時であれば、基本的人権を守る」
というのは当たり前のことであるが、これが災害となると、
「一部のルールを守らない連中のために、ちゃんと守っている人の命が危険に晒される」
ということになるのだ。
さすがに、
「戒厳令」
ほどの、強制というのは、まずいが、人の命を考えれば、少々の自由の拘束はあってもいいのではないだろうか。
だから、日本では、
「世界で行われている、ロックダウン」
というほどの制限はないが、緊急で、
「要請する」
という形で発令される、
「緊急事態宣言」
というのがあるのだ。
それでも、強制力はない。罰金もなければ、懲役刑もない。だから、
「従わなくてもいい」
ということを考える人もいた。
もちろん、
「店を開けないと、明日にでも首をくくることになる」
という人もいるだろうから、それも仕方がないともいえるのだろう。
海外で、
「ロックダウン」
に従うのは、
「戒厳令が発令されても、その分、国家が休業補償をしてくれる」
ということで、従うのだった。
日本の場合は、
「強制はしないが、保障もしない」
ということで、中途半端なことになり、結局、従わない人が出てくるというわけだ。
だから、
「日本という国は、中途半端だ」
と言われるのである。
しかし、そんな
「従わない連中を、何とか従わせる人がいなければいけない」
ということで、ネットであったり、実際にやめさせるようにするのが、
「自粛警察」
と呼ばれるものなのだ。
賛否両論はあるが、それも、致し方のないことだといえるのではないだろうか?
「自粛警察」
というのは、当時の自分を虐めていた、
「いじめっ子」
に似ているような気がする。
当時の田丸は、自分がいじめられっ子だということを意識しながら、
「自分が悪いんだ」
と感じていた。
まわりの目が、
「皆そういっているんだ」
と思うと、
「自分以外が皆、敵なんだ」
と思うようになった。
その場合は、たいていの場合、
「自分が悪いか?」
あるいは、
「相手が悪いか?
ということの、二者択一でしかない。
そうなると、どうしても多数決で考えると、
「悪いのは、自分だ」
ということになる。
だから、いつも、まわりから虐められている自分を見ると、悪いのは自分だと思うのだが、何が悪いのかが分からないのが、実にいらだちの下でしかない。
逆にいえば、
「悪いところさえ分かれば、それが、いじめの原因ということになるのだろう」
と思っていた。
しかし、
「どうもそうではない」
ということが分かったのは、いじめっ子が、自分を虐めなくなってからのことだった。
虐める連中がいうのは、
「なんでお前を虐めていたのか、自分でも分からないんだよな」
というではないか。
こっちは、必死になって、
「苛めの原因が何なんだ?」
と探していたにも関わらず、蓋を挙げてみると、
「俺たちも分からない」
では、たまったものではない。
「俺は、他の奴が虐めているから、俺もそれに乗っかっただけなんだ」
という。
こいつの言い分を聞いていると、すべてを人のせいにして、
「俺は、別に虐めたかったから虐めたんじゃない」
ということで、
「苛めを正当化する」
というわけではなく、
「自分を正当化する」
ということであり、これでは、
「虐めたことを反省などしているわけはない」
もっといえば、
「虐められる方も悪いんだ」
と言いたいに違いない。
確かに、苛めというものが、
「理不尽なものだ」
というのは、虐められる側からしか言えることではない。
しかし、こうやって聞いてみると、
「虐める方にも、何ら大義名分もなく、それ以上に、正当化すらない」
ということは、
「虐められ損」
ということであろうか?
だとすれば、
「苛めに何かの根拠のようなものがないと、虐められている方も、理不尽でしかない」
それを思うと、苛めを、
「どの方向から見ればいいのか?」
と考えるのであった。
苛められないようにするには、
「なるべく相手を無視するしかない」
ということであった。
それよりも、一番怖かったのは、
「まわりの人間が助けてくれない」
ということであった。
あとから考えると、
「苛めを止めに入ったり、いじめっ子の肩を持ったりすると、今度は苛めの対象が、自分に向いてくる」
ということを考えてしまう。
それよりも何よりも、一番怖いのは、
「虐められていた人間が、助けてもらったにもかかわらず、今度は、その攻撃の手が、こっちに向いてきたのをいいことに、今度はいじめっ子の方に、その目が向いてきて、完全に、裏を返したかのように、こちらを敵視してくることであった」
昔の戦国時代など、相手の武将が、自分が助かりたいが一心で、不利になった見方を裏切り、相手に寝返るということは結構あるだろう。
しかし、そんな中で、まだ戦が続いていれば、裏切って、こっちについた武将を、わざと、
「先鋒にする」
ということを平気でやったりする。
もちろん、
「相手のことを知り尽くしている」
というのもその大きな理由だが、
「そもそも、裏切るくらいなのだから、どこまで信用してもいいのか?」
ということで、先鋒にすることで、
「どれだけ忠義があるか?」
ということと、
「どれだけ、簡単に裏切ることができるのか?」
ということを考えるとすれば、
「さすがに、群雄割拠の戦国時代」
それくらいの意識がないと、なにしろ、
「下剋上」
ということで、
「隙あらば」
戦国大名にとってかわろうとする輩が多いのだから、安心はできないというものだ。
戦国時代において、大名であっても、安心できない。
また、信長のようにい、天下人の一歩手前で、裏切られる場合もあるというものではないか?
しかも、
「本能寺の変」
というものは、かなりの曰くがあるということで、黒幕説もたくさんある。
もちろん、
「光秀単独説」
も有力なのだが、
「朝廷説」
「足利将軍説」
「羽柴秀吉説」
「長曾我部元親説」
「徳川家康説」
これだけたくさんの説があるのだ。
そもそも、あまりにもできすぎているところもあることから、これだけたくさんの名前が挙がったのだろう。
「動機としては強いが力はない」
「力はあるが、動機の面で、あまりにもリスクが高すぎる」
などということから考えると、やはり、最後に得をした人物として、
「羽柴秀吉説」
が大きいのではないだろうか。
力関係を持ってしても、あり得ることであろう。
また、昔の西洋の話である、
「イソップ寓話」
というものの中に、
「卑怯なコウモリ」
という話がある。
この話は、鳥と獣が戦をしているところに、通りかかった一匹のコウモリの話である。このコウモリは、
「鳥に向かっては、自分が羽があることで、鳥だといい、獣に向かっては、自分のことを獣だといって、逃げ回っていた」
という。
いずれは戦も終わるもの。実際に戦争が終わると、鳥と獣は、打ち解けて話をし始めるのだが、コウモリの話が出ると、その所業が、どんどんひどいことに見えて、
「鳥と獣の共通の敵」
ということになるのだった。
結局、鳥と獣の両方から相手にされないようになり、結局、鳥からも獣からも遠ざけられてしまい、そのまま、
「暗くて、陰湿な、湿気の多いその場所にコウモリは生息するようになった」
そう、その場所は、湿気を十分に含んだ、鍾乳洞のような洞窟の中に、ひそかに住んでいて、姿を現さないように、実際の行動は、
「夜行性」
ということになり、真っ黒なボディは、その保護色を呈していた。
結局、このお話は何が言いたいのだろうか?
タイトルが、そもそも、
「卑怯なコウモリ」
なのだから、どれほど卑怯なものなのかということは、
「本人以外の皆が熟知している」
ということだろう。
本人以外というのは、本人が、自分のことを分かっていないわけではなく、実際にはよくしっているのだろう。
しかし、頭の回転は速く、自分の立ち位置も分かっているのだが、自分のことを考えた時、瞬時にして、まったく自分の中の自信というものを、ことごとく潰していくのであった。
だからこそ、
「そこまでする必要がどこにある?」
というほどのことであり、
「臆病がゆえに、そうさせるのではないだろうか?」
ということになるのである。
自分が、いかに自己否定や、発想を悪い方にもっていきがちのは、
「僕が臆病だからということなのだろうか?」
と考えてしまう。
臆病な性格は、他で腐っていないものまで、腐らせてしまうという効果がある。
というもので、一種の、
「腐ったミカン」
の理論といってもいいだろう。
「腐ったミカンが、それ以外は、まったく問題のないミカンの入ったミカン箱に入れられているすると、まわりのミカンは、腐ったミカンの影響をもろに受けて、他の正常なミカンまですべて、腐ってしまう」
つまりは、それだけ、
「腐っている」
という部分が強いのだ。
腐ってしまったその部分を取り除いただけでは、他が腐りかかっているのを防ぐことができないだろう。
だから、
「腐ったミカンが、その箱に入らないように、腐ったミカンとして、本人にも自覚させ、他の正常な人たちを惑わることをしてはいけない」
ということであった。
これは、本人たちだけでできることではない。微妙な距離にいる、たとえば、
「学校の先生」
などの役目ということで考えてしまうのだった。
だから、昭和の頃の学校教育の中で、
「腐ったミカン」
という発想があり、賛否両論はあるのだろうが、
「学園ドラマ」
などでは、腐ったミカンという考え方自体を毛嫌いするような展開の場合が多いであろう。
実際に学園ドラマというと、昭和の時代のことであり、いわゆる、
「受験戦争」
というものが、小学生にまで及んだ時代だった・
といってもいいかも知れない。
そもそも、当時の日本は、戦後から脱却し、高度成長時代を迎えたが、戦後すぐくらいの日本人と他の先進国との間で、知能指数のようなものが、かなりかけ離れているということがあるのだが、その時の政府は、
「せめて、海外の学生と同じくらいの学力をつける必要がある」
ということで、
「それは、小学生くらいの頃から、潜在的に意識を持っていないといけない」
ということになるだろう。
それはあくまでも、
「中学受験」
というものに、ダイレクトな反応があるというわけではないが、高度成長時代となり、「日本人の学力の向上なくして、高度成長を支えていくことはできない」
ということで、政府によって、学力の向上のカリキュラムなどが組まれるようになったのだ。
しかし、そこで問題になってくるのは、
「教育問題」
と一口にいわれはしたが、この問題は、奥が深いといってもいいだろう。
しかし、理屈は単純なもので、
「受験戦争の弊害」
といってもいいだろう。
受験する方は、学校の先生と、自分のレベルを冷静に判断し、先生と話をしながら、志望校を決めていくことになる。
「A学校であれば、普通に合格を保証できるかも知れないが、B学校では、五分五分くらいかも知れない」
ということで、B学校は、合格ライン微妙なところである。
そこで、本人が果敢にアタックして、合格をもぎ取ったとすれば、まわりは、驚きと歓喜のリアクションを示すだろう。
本人が、ひょっとすると、自信過剰になるかも知れない。
だが、そうなると、その学校に貼れて入学できたことに変わりなく、ここまでであれば、大いに自慢をしても、いいレベルだといってもいい。
それでも、そうはうまくはいかない。
というのは、
「受験というのは、合格すれば終わりだが、実際にそこから、学校生活が始まるわけで、今までは、孤独な受験戦争が、今度は、まわりがいて、そのまわりが皆敵である」
ということに耐えられるだろうか?
「そんなの覚悟の上だ」
というかも知れないが、果たして、本人がどこまで想像できていたといってもいいだろう。
というのも、
「今まで小学校の頃は、クラスでトップクラスの成績だったので、かなり自信過剰だったことであろう」
というもので、これが晴れて受験に成功し、難関を乗り越えて、やっと合格したところなのだが、ふと気が付くと、授業の難しさについていくのがやっとだった。
成績も、クラスで下から数えた方が早いということになるのだが、
「どうして、こんなことになったのか?」
といって、冷静に考えれば当たり前のことである。
要するに、
「まわりのレベルが上がったのだ」
といってもいいが、正確には、
「レベルの高いところに、無理をして、飛び込んだのは、自分ではないか」
ということである。
レベルの高さについていけないのであった。
要するに、
「優等生だと思っていても、優等生のグループに入ってしまうと、埋もれてしまう」
ということだ。
つまりは、
「今まで持っていた自信というものを、一気に破壊させるだけのことである」
ということだ。
そして、もう一つ言えることとしては、前述の、
「腐ったミカン」
の理論とは、まったく逆だった。
「腐ったミカン」
は、その自らの力で、
「まわりのものを自分と同じように、腐らせてしまう」
ということである。
これは、追い詰められた人間が、その最後の力を振り絞って、相手をやっつけるというような話とよく似ている。油断をしていると、首を掻かれてしまうということである。
だが、
「優等生の中に埋もれた優等生」
というのは、最初は、まわりに誰もいないところを、皆を突き放して独走態勢だったが、そのうちに、目の前に見えている一つの団体を意識すると、
「あの連中も追い越してやれ」
とばかりに、一気に先に進もうとすると、入り込んでしまうと最後、自分の意志だけでは抜けられなくなってしまった。
それどころか、自分のペースよりも、はるかに速いペースであることに気が付くと、
「ついていくのがやっと」
ということになった。
結局、群衆に紛れてしまって、その中で、どんなに殴られたり蹴られたりしても、中で何があったか分からない。
しかも、その群衆が通り過ぎた後に、ボロボロになった一人の人間が現れれば、同情を受けるというよりも、その情けなさに、
「ざまあみろ」
と思う人もいるだろう。
そもそも、その集団というのが、優等生の塊で、劣等生、いや、普通のレベルの生徒から見れば、ある意味、
「高嶺の花」
であり、
「自分たちにはあこがれではあるが、軽蔑でもある」
ということであった。
「やつらは、俺たちのことを蔑んでいるんだ」
ということで、軽蔑するのであったが、実際には少し違っている。
田丸のように、一度、優等生の集団の中に入れば分かるのだが、その集団にいると、
「吐き気や頭痛」
などという、ただでさえ耐えられないところに持ってきて、さらに、それが、自分でも、離れたいと思っても、まるで、
「おしくらまんじゅう」
のように、出ることもできないまま、倒れるまで、まわりに引っ張られるのであった。
だから、その間に、蹴られたり殴られたりしても、意識がないのかも知れない。
「痛い」
などという意識は、すべて、
「苦しい」
という思いに置き換わるのだ。
そして、
「もうついていくことができない」
と思うと、まわりの連中が、ひっぱっていこうとは、もうしなかった。
あとは、ボロ雑巾のように、捨てていくだけのことなのだ。
そして、ボロボロになって、道に捨てられるのが、一種の、
「優等生グループについていけずに、脱落した、いわゆる、落ちこぼれというものである」
ということになるのであった。
そんな落ちこぼれを、誰も助けようなどと思うはずもない。
これは嫉妬なのか、憧れなのか分からないが、しいていえば、
「憧れという名の嫉妬」
といっていいだろう。
ただ、憧れという言葉を、嫉妬というのは、普通に考えれば、あいまみれるということはないと思われる。
ということは、
「憧れ」
なのか、
「嫉妬」
なのか、どちらかが、偽物なのではないかと思うのだった。
この場合であれば、基本は嫉妬だと思うと、憧れというのはウソではないだろうか?
しかし、実際には、この憧れというのもウソではない、まわりの人だって、本当であれば、
「俺も、あの優等生グループに入れたらな」
と思っている人もいるだろう。
それはあこがれからというもので、特に、
「自分にできないことをしている」
という人に対しては、人間というのは、
「2種類の意識を持つのではないだろうか?」
一つは、普通に憧れを感じ、
「うらやましいな」
と思いながらも、優等生が、表彰されるようなことがあれば、まるで、自分のことのように、祝福している姿を見る。
その本音は分からないが、きっと、本当に祝福しているのだろう。
しかし、田丸はそんなことはできない。相手を祝福どころか、
「俺の目の前で表彰される人がいて、それを何で祝福される様を、この俺が見ていなければいけないんだ」
という思いに駆られてしまうと、
「これはたまったものではない」
と考えるのだ。
だから、そんな思いをしたくないということから、
「自分も勉強して、やつらに追い付くんだ」
ということで必死に勉強をするようになったのだ。
そして、それまでの、
「その他大勢」
といってもいい成績だった自分が、ちょっと勉強すると、すぐに、トップクラスになることができた。
ここで、
「俺って、やればできるじゃないか?」
と思い、この、
「やればできる」
というのが、一番の自信ということで、どんどん、前を見るようになったのだった。
そうなると、さらに成績はうなぎのぼりで、受験でも、かなりのところまで行けるのではないかというのが、担任の先生の評価だった。
ただ、間違えたのは、前述の、
「受験校選び」
だったのだ。
「無理をしてでも入ってしまえば、何とかなる」
ということまでは思っていなかった。
「入る前から、入った後のことを考えてどうするというのか?」
という思いがあった。
受験に合格しなければ、その先はないということで、
「自分は、受験に際して、集中していかなければいけない」
ということになるのだ。
そして、受験も突破し、入学してみると、まわりは、もうまったく違う連中の塊だった。
「和気あいあい」
などという雰囲気は、かけらもない。
皆、
「隙あらば」
と、自分だけが這い上がることしか考えていない。
だから集団で規則正しく進んでいるように見えることで、集団としての認識だが、実際には、
「烏合の衆」
といっても過言ではないだろう。
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