第2話 尊厳
田丸は、ここ最近、最初は、移転した部署に通い詰めていたことで、
「家から通う」
ということが、難しくなった。
会社から、長期出張扱いということで、ウイークリーマンションのようなものを借りるようになったが、そこから、会社までの間に、一軒の、
「居酒屋」
があることに気づいた。
最初の頃は、仕事が終われば、
「途中のコンビニで惣菜やカップ麺などを買って、部屋で食べる」
などという、少し寂しい生活をしていたが、居酒屋があるのを見つけると、
「一度行ってみよう」
と思うようになったのである。
そのお店に、初めて入った時は、ちょうど客が少ない時で、ちょうどよかった。
お店の雰囲気は、
「こじんまりとした小料理屋」
ということで、一人の女将さんと、もう一人、若い男性が、従業員として、調理を担当し、表には、これも若い女の子が、レジや奥のテーブル席に、料理やお酒を運ぶという役目を担っていた。
最初に訪れた時は、カウンターに、1人、奥のカウンターで、ちびりちびりやっている時間だったのだ。
あまりにも、人が少ないので、思わず時計を見たのだが、時間的には、もう午後八時を過ぎているので、当たり前に客がいる時間だった。
「早すぎる」
という時間ではないということである。
お品書きを見ていると、
「値段的には、良心的な気がするな」
と感じたほどで、お酒も、どうやら地酒であったり、全国のお酒が、ある程度くらいなら揃っていそうなのは、カウンターの奥の棚を見れば、分かったのであった。
田丸は、それほそアルコールが強いわけではない、特にビールなどの炭酸系であれば、コップ一杯でも、気持ち悪くなるというくらいであった。
しかし、日本酒の熱燗というものであれば、
「ゆっくりと飲んでいれば、酔っぱらうことはない」
と思っていたのだ。
これは、今に始まったことではなく、以前から感じていたことであり、
「どこか、居酒屋にいけば、飲み物は、日本酒」
と決めていたのだ。
以前から、
「会社が終われば、家に直行」
というのは決まっていたことなので、居酒屋を気にすることもなかった。
だが、一時期、どうしても、お腹が減ってしまったことで、居酒屋で飲んで帰ったことがあったが、その時に、
「たまに、居酒屋というもの悪くない」
と思うようになり、
「一週間に、2,3度くらいは、飲んで帰る」
という時期が、半年ほど続いたであろうか。
急にいかなくなったのは、一人気になる女性がいて、その人が、急に来なくなったからだ。
だから、実際に行かなくなったので分かるわけはないのだが、まわりの勘のいい人は、
「田丸が、来なくなったのは、きっと、彼女のことが好きだったからなんだろうな」
と思っているだろうことを感じさせた。
だから、
「本当なら、もう少し通いたかったな」
という、店の雰囲気と、料理のおいしさには、一目置いていたこともあって、行かなくなったというのは、自分でも後悔してしまうのであった。
「いまさら行き始める」
というのは、後戻りできないということを示しているのであった。
だが、出張ともなると、何か大きな気分になるということは、往々にしてあることであり、時期的に、もう後を引くようなこともないので、
「ほとぼりが冷めた」
ということで、その居酒屋に行くのが好きになった。
女将さんは、落ち着いた人で、女の子も、どちらかというと、
「おしとやか」
という雰囲気で、二人とも、
「店の雰囲気にあっている」
ということで、毎日であっても、結構楽しいと思うようにいなり、3日目くらいで、すでに、
「常連認定」
という感じで、皆がいってくれたことが嬉しかった。
ほとぼりが冷めたことで、安心感が戻ってきたといってもいいのか、店の雰囲気も似ていることもあり、
「店側からも、許された」
という気持ちになり、毎日でも通ってもいいだろうと思うようになったのだ。
出張というと、
「日当」
というものが出る。
さすがに日当だけでは賄えないが、それでも、
「毎日どこかで外食」
ということになれば、そんなに変わるわけではない。
一度、こういうアットホームな雰囲気に慣れてしまうと、いまさらながら、元に戻ることなどできないだろう。
それを思うと、
「この店と運命を共にするのも、悪くない」
とばかりに、かなり大げさなことを考えたりもしたのだ。
最初の日は、客が一人だけだったのだが、毎日来るようにいなると、その客も、
「毎日来ている」
ということが分かってきた。
3日目くらいから、常連扱いをしてもらえるようになると、
「田丸さんは、いつも同じ席ですね?」
と女将さんから言われ、
「ええ、そうです。同じ席でないと、落ち着かないんですよ」
というと、
「そうなんでしょうね。これが不思議なことに、常連の皆さんは、別々の席が多く、そして指定席になっているのに、かぶることがないんですよ。これを偶然というのか、それとも、都市伝説的な不思議の事実ということになるのか、面白いですよね」
と女将がいった。
なるほど、確かに、常連の席というのは、指定席が多くて、しかも。かぶらないのが多いというのは、それぞれに、事情があるわけではなく、運命というものに操られているのではないか?
というように、勝手な発想を抱くこともあったりするのであった。
「席が、皆常連で指定席が違うというのは、暗黙の了解というものを、それぞれに信じているからではないだろうか?」
というように田丸は考えていた。
最初にいた老人と思しき人も、同じように、誰ともかぶっていない。
「もし、かぶったら、どうするんですか?」
というので、
「私にはわかりませんが、最初に座っていた人が、当然優先権があるわけなので、別に気にすることはない」
と言いながら、決して、田丸と顔を合わせるということはない。
それは、田丸に対して、何か、言えないようなことがあり、田丸が、
「絶対に知っておくべきことではない」
という思いがあることで、
「何かこの街には、都市伝説的なものがあるのではないか?」
と感じるのであった。
ただ、それはこの街だけに限ったことではない。考えられることはいくらでもあり、そのおかげで、
「どこか、閉鎖所のある街だが、指定席にこだわりがないということは、ありえないのではないか?」
ということが考えられるのであった。
店の中の雰囲気は、
「いつも時間の進みが少しずつ違っている」
という思いがあったのだ。
それは、たぶん、
「自分の体調の違い」
であったり、
「疲れ」
などによって、酒のまわりが違っているからではないかと考えるようになっていた。
そんな時、いつも自分が来るときには、いつもいる老人がいた。
その人は、最初にこの店に来た時、一人で奥のカウンターで飲んでいた老人だった。まだ、話をしたことはなかったが、なんとなく気になる存在であった。
話をしないのは、意識してしなかったわけではなく、指定席が離れているということで、「話をするタイミングがなかった」
というだけのことだった。
しかし、それは、田丸が勝手に感じているだけのことで、相手はまったく何も感じていないのかも知れない。
そもそも、その老人は、自分にだけではなく、他の人と話をするわけではなかった。いつも一人で飲んでいて、まわりの誰ともからもうとしない。
もっとも、その老人が誰かと絡んでいるというような雰囲気を感じたことがなく、もし、そんな雰囲気が醸し出されるのであれば、違和感が出てくるというものであった。
ある日、いつもよりも少し早めに店に入ることができた田丸は、いつものように、店全体を見渡した後、いつもの老人の席に目をやると、その日はまだ老人が来ていないというのを感じると、自分が、いつもよりも早かったことを再認識したのだ。
そこで、女将に、
「今日は、あそこのいつもの老人は来ていないんだね?」
というと、
「そうですね、今日はお休みかも知れませんね」
というではないか。
それを聞いた田丸は、最初の日本酒を一口飲んで、いまいち納得がいかないかのように、
「あれ? あの人は毎日来ているんじゃないですか?」
と聞いたのだ。
確かに毎日なのかも知れないが、たまに休むことだってあるだろう? 女将の言葉をそのまま聞けばそれだけのことだったのに、なぜか、聞かずにはいられなかった。
「毎日来ている」
という、
「自分の中での常識を、自分なりに納得させたい」
ということだったに相違ないのだろう。
女将は、田丸の質問の意味を知ってか知らずか。
「そんなことはありませんよ。週に2,3回くらいじゃないかしら?」
というではないか。
それを聞くと、
「えっ、それじゃあ、このお店に現れるタイミングというのは、この僕とほぼ同じということなのかな?」
と聞いてみると、女将は、その時初めて。田丸の言いたいことの意味を察したというのか、
「ええ、そういうことになるんでしょうね。私も今言われて気が付いたわ」
と女将は、自分の記憶を思い出しているようだったが、さして、そのことに驚きのようなものはないようだった。
女将は、ここまで常連で持っているような店であるだけに、その数もそれなりにたくさんいることだろう。
いくら女将とはいえ、その全員の行動パターンを把握しているわけでもなく、しかも、それが、他人と重なった時という、
「無限の可能性」
としての、
「すべてのパターンを、把握できるわけもない」
といってもいいだろう。
女将というものが、どのようなパターンなのか、それでも、ある程度までは把握していると思ったが、田丸と老人に関しては、
「言われてみれば分かる」
という程度のことだったのであろう。
その日は、それでも、なかなか老人は現れなかった。
「やはり、いつも誰かがいることで意識してしまうその場所に、今度はいないことで、さらなる意識が集中してしまう」
などということを感じるなど、想像もしていなかったといってもいいだろう。
ゆっくりとまわりを見ると、普段は意識しないはずの人を意識している自分を感じた。それだけ、
「いつものあの老人を、意識してしまっている」
ということになるのであろう。
そんなことを考えていると、
「普段から、ざわつきが、こんなにすごいとは思わなかった」
と感じたのだ。
そのざわつきを、必要以上に感じたのが、子供の頃の記憶であったが、小学生だったか、中学生だったか、忘れてしまっていたのだが、ちょうど、熱が出た時だったと思う。普段から、扁桃腺の熱で悩まされていた頃だったから、やっぱり、小学生の頃だったのではないかと思うのだった。
年に2,3度は、高熱が出て、学校を数日休むということになったのだが、それは、いつも、朝方は、
「身体はきついが熱はない」
ということで、学校に行かないための、
「大義名分」
というものが見つからないために、学校に行かなければいけないということで、結局、授業を受けていても、昼前くらいまでに、体調がよくなるわけではなく、
「顔色が悪いので、保健室に行ってこい」
と言われ、保健室にいって熱を測ると、いつも、39度を超えるくらいの発熱で、いよいよきつくなり、
「動けるようになるまで、ベッドで寝ている」
という、
「いつものパターン」
を繰り返すことになるのだった。
「体温を確認してしまうと、あとはもうダメだ」
ということになる。
普段であれば、少々の熱は気にもならないのだが、さすがに、ここまで高熱だと、一度横になると、身体を起こすことができなくなるほどに、自己暗示に罹ってしまい、そのまま動けるように待っていると、家族が心配して学校まで来てくれるか? 先生が病院まで連れていってくれるかということになるのだった。
実際に、病院で検査をしてもらい、以前には、
「インフルエンザですな」
と言われ、そのまま解熱剤を注射され、強引に熱を下げたタイミングで、家に帰るということもあったりした。
「熱が引いても、一週間は、学校に行ってはいけません」
と言われたが、子供だったということで、その意味をハッキリと、分かりかねていたのである。
それでも、親も、
「インフルエンザ」
ということになると、看病も難しい。
「少し良くなって、家の中を歩き回る時は、マスクをして頂戴ね」
と言われたものだ。
それほどの感染症が、インフルエンザにあるとは思っていなかったのだ。
「学校で、予防注射を打つでしょう?」
と親に言われて。
「ああ、そうか」
と感じるのだった。
考えてみれば、確かに年間何本も、予防接種ということで、注射を打つが、
「それが何の予防接種なのか?」
ということを、いつも意識しているわけではない。
むしろ、知らないことの方が多いが、それだけ、子供としては、
「注射はいやだ」
と思いこそすれ、興味があるなどありえないことであろう。
「体調が悪い時」
特に、
「熱が高い時」
というのは、意外とその対処法を勘違いしている人が多いということを、聞いたことがあった。
高熱が出る時というのは、インフルエンザにしても、扁桃腺炎にしても、パターンは一緒である。
普通、熱が出ると、親はまず、
「熱を覚まさなければいけない」
ということで、解熱剤を使おうとしたり、氷枕などで、熱を下げようとする。
しかし、これは逆のことであり、なぜなら、
「高熱が出るということは、身体に入った菌を、身体の中にある抗体が、菌をやっつけようとして、戦っているのだ。その時に出る熱であって、決して、高熱が出ているからといって。熱を冷まそうとしてはいけない」
ということなのだ。
その証拠に、患者は、
「熱があるのに、震えている」
という現象があるではないか。
つまりは、
「身体の中の菌は死んだわけではなく、まだまだ戦っている最中なので、熱を下げようというのは、せっかく戦ってくれている抗体に、不利な条件を突きつけるようなもので、これではいけない」
ということになるのであった。
だから、
「熱がある時というのは、逆に積極的に身体を暖めることをしないといけない」
ということになるのだ。
それまで、汗を掻くことはないので、身体に熱がこもる形になるので、結構きついのだが、それも、ある意味仕方がないということである。
そして、ある程度までくると、今度は、熱の上りがピークを迎え、少しずつ楽になってくるにしたがって。汗を掻いてくることになる。
この時の汗の量は、尋常ではない。
「脱いだ下着を絞れるくらいの汗の量で、下着が何枚あってもキリがない」
というくらいの汗を掻くことだろう。
この時に、濡れた下着を着替え、身体を拭いておくと、かなり楽になるということであるが、この時に、一気に身体を冷やすのである。
実際には、身体を冷やそうとまでしなくても、解熱剤が効いてきているということもあって、一気に熱が下がり、それまでにあった。寒気や悪寒、そして、頭痛などの症状が、次第に収まっていくということを感じるのだ。
一気に熱が下がってくるのを感じるので、熱を測ると、それでも、まだ結構な熱がある。それだけ、完全に治るまでには時間が掛かるということで、インフルエンザというのであれば、そこに、ウイルスが介在しているということで、人に伝染させないようにしなければいけないということで、医者が言った、
「一週間は、学校に行ってはいけなせん」
ということになるのだ。
学校に、
「インフルエンザが陽性だったので、しばらく学校をお休みします」
というと、学校側からも、
「お大事にしてください。しかし、熱がもし引いたとしても、一週間は、学校を休ませてください」
ということになるのであった。
当然のことながら、
「学校のいう通りにしなければならず、意外と、4日目くらいから楽になったと思ったとしても、学校はおろか、どこにも出られないというのは、却ってつらいかな?」
と感じるほどであった。
何しろ、身体はいくらでも動くという、小学生時代。
状況に、頭が忖度できるほどの大人になったわけではないので、
「どこにも出かけることができない」
という状態が、切羽詰まったかのようになっているのが、嫌だったのだ。
「伝染病というものは、インフルエンザに限らず、本当なら、隔離されなければいけないのだろうが、今の日本には、隔離しないといけないような病はないだろう」
ということだったのだ。
ざわつきを感じながら飲んでいると、今までに感じたことのなかった場所が、
「ここまで騒がしいとは?」
と感じると、その日は、普段に比べて、酔いに周りが早い気がした。
それも、心地よいいつもの気分になれるのではなく、どこか、頭痛のようなものがしてくるのを感じた。
変な酔い方をする時は。事前に分かるというもので、頭痛がしてきそうになると、すぐに飲むのをやめたものだ。
しかし、この時は、頭痛の兆候があるまでに、少し時間が掛かった。そのため、頭痛を感知することができず。気が付けば、頭が痛くなっていた。
その時の痛みというのは、普段のような、
「ズキンズキン」
という痛みとは少し違い、何か、頭全体が重たく感じられたのだ。
首の奥が、まるで筋肉痛であるかのようで、最初は、これが、頭痛だとは、ずぐには思えないくらいだった。
それが頭痛だと分かってくると、今度は、目の前が、よく見えなくなってきた。
「飛蚊症」
と呼ばれるようなもので、目の焦点が合わず、まるで、目の前にクモの巣が張っているかのように見えてくる。
「頭痛からきているんだろうな」
と思ったが、どうも、いつもとは逆だということを感じていた。
たまに、頭痛に吐き気を伴うような時があり、若い時は、よく病院に駆け込んだこともあったのだが、その場合は、
「先に、飛蚊症が襲ってきて、少し収まってきて、目の焦点が合ってくると、今度は激しい頭痛に襲われる」
というのだ。
「その時、まるでセットのように、吐き気が襲ってきて。頭痛が収まると、吐き気も収まるということで、病院では、頭痛薬と吐き気止めの2種類をもらったものだ」
というのを思い出していると、
「今回は逆なんだよな」
と感じた。
ただ、まったくの逆というわけではない。この時の頭痛は、
「飛蚊症が襲ってきても、治るものではなかった」
と考えると、田丸は、さらに厳しいことを感じたのだ。
というのは、
「この頭痛は、普段と違うものなので、少しずつ収まってくるだろう。しかも、飛蚊症の間におさまってしまうと、今度はそこからが、いつものことのように、飛蚊症が引いてくると、今度はいつものような、吐き気を伴った頭痛が襲ってくることになるのではないだろうか?」
という思いであった。
なるほど、今回の最初の頭痛は、
「最初に襲ってきたから、きついと感じるのだが、これが、いつもの飛蚊症の後では、そこまでひどいということはない」
ということだったが、
「それがなぜなのか?」
ということを考えると、分かった気がした。
「そっか、最初の頭痛には、吐き気を伴っていないんだ」
という感覚である。
吐き気が伴うからこそ、頭痛の酷さが自分にとっての、果てしなさを感じさせ、
「本当に、この頭痛は治るのだろうか?」
ということまで感じさせるほど、
「痛みは永遠に残りそうな気持になり、その思いからか、病院で治療を受けても、もらった薬を飲んでも、最初の頃は効いているという気が、まったくしていなかったのだ」
という思いが強かったのだ。
今回の頭痛は、案の定、思った通り襲ってきた。
しかし、いつもほどの痛みも吐き気もなかった。
「最初に襲ってきた分、痛みに慣れたのだろうか?」
と思ったが、痛みに慣れるほどの時間が経っているわけではなかった。
「まさか、この間、自分で感じているよりも、時間というのは、経っているということなのか?」
と、時間の歪みを感じさせる昔の物語を想像させるのだった。
時間の進み方が、
「劇的に違う」
ということを思わせるお話としては、やはり、
「浦島太郎」
のお話であろうか、
「竜宮城というところに、2,3日の間、遊びに行っている間に、どんなに楽しくても、故郷が急に恋しくなってきた。そこで、竜宮城から帰りたいと願い出ると、乙姫様は、名残惜しそうに、玉手箱を与えてくれた」
というこである。
そして、
「地上に帰り着くと、そこには、知っている人のまったくいない世界で、しかも、村の様子もまったく違っていた」
ということであった。
実際に戻ったその場所というのは、
「700年くらいの未来だった」
ということなので、それこそ、想像するに、
「相対性理論」
というものを思わせるのだ。
これは、
「光速のスピードで移動すれば、従来のスピードよりも、かなり遅く時間が進行するので、自分たちが、数日くらいにしか感じていないことも、地球上では、数百年が経過している」
ということになるという。
「時間の歪み」
という考え方であった。
だから、人間が、
「不治の病」
というものに犯されていて、
「少しでも長く生きられるように冷凍保存しておいて、医学が発達し、その病が不治の病ではなくなった時、目を覚まさせ、そこで治療を受ける」
ということを、真剣に考えて、実際に、秘密裡に行われるプロジェクトも存在しているのではないかと思われる。
しかし、これは、公にできることではない。
というのは、
「人間の生き死にに対しては、他の人間が関与してもいいのか?」
という問題は、
「安楽死」
ということにかかわってくるのだ。
事故や病気で、
「植物人間化」
してしまった人を、安楽死させることは、基本的には許されず。ほとんどの場合は、殺人罪ということになり、医者は、かかわりたくないことであろう。
ただ、医者としても、普段から、患者の死というものにかかわっているので、余計に、人が死ぬということの尊厳というものを考えると、
「敬意を表する」
ということで、
「楽にしてあげてもいいのではないか?」
ということであった。
そんなプロジェクトも、中にはあるのかも知れない。もちろん、公にはできないのだろうが、
「このことは、俺たちだからいえることではないか?」
といって、普段から死に直面している医者だからいえるのだろうが、逆に、
「医者というものは、人の命を助ける商売」
という、
「存在意義」
を考えると、
「医者が、そんなことをいうのは、おかしい」
とする、医者の集団もあることだろう。
しかし、一番の問題は、残される家族で、実際に、
「生きているのか、死んでいるのか分からない」
という状態の人を目の前にして、その生命維持のために、自分の私生活をめちゃくちゃにされることを考えると、それこそ、
「家族の尊厳」
などあるのだろうか?
ということになるのである。
「生命維持装置を使用するにも、莫大なお金がかかる」
それは分かっていることであり、
「それをじゃあ、誰が負担するというのか?」
ということになれば、それは、家族の負担ということになるであろう。
生命保険から、いくらかは出るかも知れないが、それだけで足りるわけもないだろう。
要するに、
「家族としては、いつ目が覚めるとも限らない人を、お金をかけて、自分の生活をめちゃくちゃにしながら、果たして、本人を生き続けさせる必要がある」
というのであろうか?
そもそも、植物人間になった人が、
「家族に迷惑をかけてまで、何もできないのに、生き続けていたい」
と思うだろうか?
確かに、生き続けるということは、本当に正しいことなのかどうか?
それは誰にも分からない。
そもそも、人間の生死は、
「どこを持ってその境目とするのか?」
法律的には、いろいろな判断を元に決めたことであろう。
しかし、一人の植物化してしまった人間を生かし続けるために、家族の犠牲というのは、どう考えても、無理がある。
下手をすれば、借金をしてまでも、生命維持装置を動かし、借金取りに追われる生活で、「植物化してしまった人よりも先に、命を絶つ」
などということになってしまうと、これこそ、
「本末転倒だ」
ということになるのではないだろうか?
「安楽死」
あるいは、
「尊厳死」
という問題は、大きな問題であり、
「命を天秤に架ける」
というようなことをしてはいけないのだろうが、少なくとも、
「家族がすべての面倒を引き受ける」
というのは、理不尽この上ないといってもいいだろう。
「結局、尊厳死を認めない」
というのは、他人事だと思っているからではないか?
などという考え方も出てくるわけで、本当はそんな単純なものではないと分かっているのだろうが、実際には、他にもいろいろ考えるところもあるだろう。
しかし、家族の問題一つをとってみても、
「尊厳死」
という問題は、永遠に続く、
「人間が人間の死をいかに考えるか?」
ということであり、下手をすれば、
「生殺与奪の権利」
というところまで言及することになるだろう。
それとは、逆に、
「不治の病に侵された人が、このままでは、余命とともに、死を迎える」
ということが分かっている人が、
「一縷の望みをかけて、未来の不治の病ではなくなる時に目が覚めるように、未来に対して、本人を冷凍保存する」
という考え方も、微妙な感じがあうるのだ。
これは、浦島太郎の心境に似ているのではないだろうか?
数百年後の誰も自分を知らない、そして、自分もまったく知らない相手だけがいる世の中に。一人だけ飛び出して、
「どうやって生きていけばいいのか?」
ということである。
ひょっとすると、
「あの時に、死んでおけばよかったかも知れない」
と思うのではないだろうか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます