……・・

 自国で? もちろん傘をさすわ。理由のひとつはいたって単純。お金がなかったの。だってそんなの持つ必要ないから。でもコンビニエンス・ストアで傘を手にいれるには通貨が必要なことも知っている。何不自由なく用意もできたわ――ほんの出来心で迎賓館を抜け出していなければね。国賓としての自覚はないのかって? 人間何時間まで寝ずに耐えられるかっていうのがあるでしょ……では人間何日間分刻みのスケジュールに耐えられるでしょう……ええ、そんなの日常だという人はごまんといるんでしょうね。ただあたしが徹底的に飽きてしまった。それだけが問題。ごめんなさい。 

 ああそうだもっといい例えを思いついたわ。きぐるみってあるでしょ、たとえばあの……伏字にすると***ー・マウス。常に分刻みのスケジュールでショーにでずっぱり、手を振りたえず感じよく笑いかけ、一生あのテーマパークと着ぐるみから出られないキャラクターになったとしたら……たぶん絶望すると思うのよ。それで、人目をはばかって着ぐるみから抜け出したらきっとあたしのようにジェーン・ドゥ、男ならジョン・スミスと名乗るってもんだわ。つまり“名無しの権兵衛”をね。


 と、ずっとあたしはひとり頭の中で喋っていたの。向こう風とエンジン・走行音で声はかき消されるしわりかし舌を噛みそうになるほど体が振れるのね、バイクって。殆ど怖いからと、滅多にない機会だから前の背中にぎゅっとしがみついていた。暗色のスーツはしっとり濡れてより色濃く、ヘンな男だとは思ったけど既に確信に変わっていた。傘の意味は? スーツでバイク。大型の。まあこれもあたしの思惑通りといえばその通り。日本人って勤勉で実直、規則を重んじるって聞いたわ。あと日和見主義……そんなステレオタイプで見ちゃいけないって分かってるけどまあ、橋の上で歌う変人への対応を見る限り傾向はそれを裏付ける感じね。で・まあ、悪いとは思ったのよ。もしこんな面倒、、に巻き込むとするなら、良心の呵責が薄れるような変人がいいかな、てね。


「銭湯だ、レディ・ジェーン」

 

 連れてこられたのはリョウゴクのそんな場所。“銭湯セントウ”がジャパネスク文化だとは知っていたけど、施設は新しく現代風で、殆どスパと変わらないものだった。裸もまぁ知人がいないなら恥はかき捨てね。こちらのサウナも裸だし。

 とってもいい気持ちだったわ。雨と汗でじっとり湿った肌には格別。炭酸だの薬湯だの打たせ湯だの、数は多いし岩盤浴まであるし……これは男女混合だったけど裸でないのはいいわね。なんといっても清純なうら若き乙女だもの。

 そうして綺麗さっぱりして、横目で見ながら右マエの館内着を着て、のんびり出て行ったのよね。入浴後のリラックス・スペースまでいくつかあって、畳の間を見渡したときに見つけた。

 着流しの……浴衣姿。実にくつろいで文庫本を読み耽っている。あたしはすたすたと歩いて行って横にすとんと腰を降ろした。そしてよくよく顔を覗く。外は霧雨で移動はヘルメットを被っていて、若い男という以外の情報はなかったはずだから。

 整髪剤の落ちた髪は心なし目にかかり、瞳と同じ鴉の濡羽のような黒だ。頭ひとつ抜けた長身に、東洋とも西洋ともつかず離れずただ言えるのは精確に整った顔立ち。


《ハーフ?》

《クォーターらしい》


 思わず自国語で呟くと、思わぬことにその言語で答えが返ってきた。顔をとくとく見てても素知らぬふりだったのに、ようやく本を閉じた。ただキリがよかっただけかもしれない。

 

《まぁ、じゃああなたのおじいさまかおばあさまが》

《いいや、言語は趣味なんだ》 


 そう? 彼は困ったように笑ったけど――

 あたしがこう早合点するのも無理はない。自国語というのはとてもマイナーなのだ。ややこしいんだけど自国の公用語でもなく、それに訛りを加えた通俗語だ。

 俄然親近感が湧いた。小国の王女、というのは謙遜ではなくて、都市程度の広さと言ったら分かりやすいだろうか。知り合いの知り合いは知り合いの知り合い、と言っても過言ではない。ああ、経済・文化の面でなんら引けを取らないのでおみくびりなく。

 ただ、まあ……

『クォーターらしい、、、

 これ以上突っ込むのは野暮ってものよね。あたしだって特に大きな秘密を今抱えているわけだし。


「そう。それで……助けてくださってありがとう、“ジョン”。あたし、とても困っていたの」

 

 このフェア精神を言外に伝えるべく、あえて英語に戻って言った。

「役立ててよかった。もう送ろうか?」

「うーん、そう、ね……」

 そもそもを言うと橋の上で旅情と孤独に耽ったら、つまり時間にして一・二時間もしたら戻るつもりだったのだ。黄昏時から夕食前に。供も付けずに行方をくらますなんて、本来許されるわけはないんだけど、あたしは昔からの“跳ねっ返り”で、実はちょくちょく脱出癖がある。そうして越えちゃいけないラインっていうのをわきまえているので、王族剥奪なんてことにはならずに呆れられるくらいで済んでいる。

 “ディナーは大使館で会食を……明日の出立フライト前に朝はスピーチと記者会見、それから……”

 むせ返る香水の匂いと共にマダムの早口スケジュールが頭を巡る。あ、あ、早再生をし過ぎて何を言っているの――要は今帰れば

「カフェに寄りたいわ」

 口をついて出たのは真逆の言葉、思わず眉を八の字にして訂正する「だけど――」

ツケ、、でいい」

 からかうようにくすりと彼は笑うから、「よかったグッド」なんて返しちゃった。

 

 それで浴衣ユカタを着て街に繰り出したのよ。湿った洋服はクリーニングに出して、好きな柄を売店で選んで。彼の着流しもそれで調達したらしく、さも当然のような流れだった。

 白地に降る青の線を縫うように、金魚が泳ぐ。黄色の帯を彼が締めてくれた。なんだかヘンというか不思議な人。これを着付ける部屋やクリーニングの仕上がり時間とか、何気ない調子で尋ねただけで、予想以上の答えが返ってくる。“交渉”をするというよりも――自動扉のように立つだけで先が開く。なんだかそれが当然、みたいな錯覚をしてしまうのよね。かくいうあたしも、なんだか心地よい流れに身を任せたい気分になっていた。ひとつ大きな傘の下肩触れ合って。



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