6 思い出の味


 ――西園寺家との話がつくまで、佳月にはここにいてもらう。


 軟禁宣言に驚きはしたが、僕は何も言わなかった。

 真夜は僕をもう一度優しく抱きしめて、部屋を出て行った。

 離れていく体温が寂しくて、引き留めたい衝動には駆られたけれど。


「僕が逃げ出すかもしれないとか、思わないのかな……」


 ホテルから出なければ好きに過ごしていいと言われている。

 どこも拘束されていないし、室内に見張りはいない。

 逃げようと思えばきっと、逃げられる。

 無理やり屋敷から連れてこられて、自分の意思とは関係なく軟禁されている。

 普通なら、逃げようと思うはずだ。


(でも、ここにいれば真夜に会える……)


 三年間、心の内で思い返すことしかできなかった。

 僕にとって唯一無二の特別である真夜。

 真夜の声が聞けて、真夜の顔が見られて、真夜に触れられる。

 そう思うと、どうしても逃げようという気持ちにはなれなかった。

 西園寺家を継ぐ者として、育ててくれた祖父には悪いけれど。


「はぁ……それにしても、暇だな」


 退屈しのぎになるようなものが、ここには何もない。

 とりあえず、自分が過ごす部屋のことを知っておこうと僕はゆっくりと足を踏み出す。

 カーテンを開けると、大きな窓からは高層ビルが立ち並ぶ街の様子が見下ろせた。

 目線を遠くへ飛ばせば、有名なタワーまで見える。

 夜になれば、美しい夜景が見られることだろう。

 というかこのホテルの部屋、僕の部屋よりも広い。

 ベッドルームと別にリビングとキッチンまであるのだ。

 冷蔵庫を開けてみると、真夜が用意したのか、数種類の飲料水とすぐに食べられる軽食やデザート類が入っていた。

 ぐう、とお腹が鳴った。

 もう昼過ぎだが、朝から何も食べていない。

 食事はルームサービスをとればいいと言われているが、本当に大丈夫なのだろうか。


 西園寺家の御曹司を軟禁しているなんてことが知られて、もし真夜が罪に問われれば?


 祖父――西園寺グループに喧嘩を売った時点で、真夜はもう引き返せないことは分かっている。

 それでも、もし僕のせいで真夜が不利な状況になり、また離れていってしまうと考えただけで心臓がぎゅっと締め付けられる。

 僕は冷蔵庫に入っていたサンドイッチを手にとり、パクリと口に運んだ。

 おいしい。卵の黄身と白身の形が絶妙に残ったタルタルと、しっとりとした食パンがよく合う。

 てっきりホテルのものだと思っていたのに、一口食べただけで真夜の手作りだと分かって泣けてきた。

 これは、僕が真夜によく作ってもらっていた味だ。

 心を殺していたせいで、僕の五感はかなり鈍くなっていて、何を食べても美味しいと感じられなかった。

 美味しそうに食べ物を食べる人を真似て、味わっているふりをしていた。

 そんな僕のために真夜が初めて作ってくれたのが、卵サンドだ。


 ――これからもっとレパートリーを増やしていく予定だからさ、もしこれが美味しくなくても、無理して食うなよ? いつか絶対に佳月が美味いって思う料理を俺が作ってやるから。


 母親に料理を習い始めたばかりで、簡単なものしか作らせてもらえないとぼやいていたが、初めて美味しいと感じられた食事だった。


「……本当にずっと、忘れないでいてくれたのか」


 空腹を満たして、僕は室内の色々なところを見て回り、ソファでひと息つく。

 ベッドやカーテン、ソファ、テーブルなどの調度品も質がよく、洗面所やバスルームには大理石が使われている。

 おそらく、ここは高級ホテルのスイートルームだろう。

 普段ホテルを利用することなんてなかったから泊まったことはないが、宿泊料金はかなり高額なはずだ。

 それも、しばらくの間押さえておくとなれば、元使用人の真夜に払える金額だとは思えない。

 一体、三年の間に真夜に何があったのだろう。

 何度目か分からない問いが浮かんだ時、ピッという電子音がして、ドアが開いた。

 ルームカードを壁に差して、黒のスーツを着た真夜が入ってくる。

 真夜の姿を目に入れただけで、心が浮足立つ。


「ただいま。ちゃんとここにいてくれて安心したよ」


 そう言って、真夜はにっこりと微笑む。

 真夜が戻ってきてくれて安心したのは僕の方だった。

 でも、それを素直に出すのは癪で、僕は唇をとがらせる。


「どうせ逃がしてもらえないんだろう?」

「まぁ、そうだけど。まだ俺から逃げる気あるのか?」


 ぽん、と頭に手が乗せられた。

 優しく僕を撫でるこの手から、ぬくもりから、逃げたいと思う人間なんてきっといない。

 手足を拘束されていなくても、見張りなんていなくても、僕はもう囚われていた。

 真夜が与える優しさこそが、僕の心を縛る拘束具であり、檻だ。

 逃げる気力なんてこれっぽっちも残っていなくて、悔しくて。

 僕は真夜を睨むように見上げた。


「じゃあ、真夜はどうなの? 僕をどうしたいの? 僕のこと、けっこう好きだよね?」


 その問いの答えは、性急に唇を塞がれて聞くことはかなわなかった。

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