5 人形の心に閉じ込めたもの
嫌な夢を見ていた気がする。
祖父の部屋に行くと、いるはずのない真夜がいる夢。
いまだに未練があったのだろうか。
しかし、いつもなら目覚めと同時に感じる体の痛みや違和感がない。
「……?」
視界に入ってきた天井が、部屋の匂いが、自分の部屋のものではなかった。
清潔感のある上質なシーツに包まれ、室内は白とベージュを基調とした落ち着いた色合いだった。
まだ夢でも見ているのだろうか。
そう思っていた時、ガチャリと扉が開く。
「おはようございます」
にっこりと笑みを浮かべ、トレーにティーポットとカップを乗せた真夜がいた。
(ど、どういう状況なんだ……? まさか、あれは夢じゃなかった……?)
意識が覚醒してしまえば、吞気に横たわっていられない。
上体を起こして、僕は真夜を見つめた。
彼は柔らかな笑みを浮かべて、吞気に紅茶をカップに注いでいる。
「僕をどうするつもりだ? お前を追放した僕への復讐か?」
意識を失う直前、真夜に口移しで何かの薬を飲まされた。
今思えば、睡眠薬のようなものだったのだろう。
(僕から離れて幸せに暮らしていてくれればいいと思っていたのに……)
一方的に追放されて、家族は職を失ったのだ。
真夜の立場からすれば、西園寺家を恨んでいても仕方がない。
その原因を作った僕が、真夜の幸せを願うなんておこがましいことだったのだ。
「恨むなら、僕一人を恨めばいい。西園寺グループには手を出さないでほしい」
恨みなら、僕一人が背負えばいい。
西園寺グループに関わる多くの人間たちを、僕のせいで巻き込みたくない。
跡取りとして育てられた責任感から、そう強く思う。
「佳月様は、何か勘違いをなさっているようですね」
どうぞ、と紅茶をすすめられたが、飲む気分にはなれない。
真夜の口調に、友人のように砕けた会話はもうできないのだと改めて思い知らされる。
そのように仕向けたのは自分だというのに、真夜がまるで知らない人間のように思えて胸が苦しい。
「私は佳月様をあの屋敷から救い出したかっただけです」
「僕には救いなんて必要なかった」
真夜がいてくれればそれでよかったのに。
僕を救おうとせず、あの夜のことを“なかったこと”にしてくれていれば、ずっと傍にいられたのに。
どうして真夜は僕のために無謀なことばかりするのだろう。
そのせいで、僕たちは傍にいられなくなったのに。
本心を殺して、僕は責めるような口調で言った。
「別にどうでもよかったんですよ。あなたが救いを求めていようがいまいが」
「……は?」
真夜の言葉の意味が分からなくて、僕の口からは間の抜けた声が漏れる。
僕が救いを求めているかは、どうでもいいって――?
はあ、と長いため息を吐いて、真夜はくしゃりと前髪を握った。
これは、感情が昂った時にしていた癖だ。
「俺が、許せなかったんだよ……お前をあんな奴に触れさせることも、傍にいたのに気づけなかったことも、お前との約束を守れない自分も、全部が許せなかった。お前を守るのが、俺の役目だったのに……!」
口調は素に戻っていて、それが本心なのだと分かる。
吐き出された言葉に、僕の心は震えた。
本気で守ろうとしてくれていたことが嬉しかった。
忘れてほしいなんて嘘で、本当は僕のことをずっと忘れないでほしかった。
僕と同じ気持ちじゃなくてもいい。
使命感だとしても、僕をずっと思ってくれていたことが、どうしようもなく嬉しい。
喜んではいけないと分かっている。
西園寺家を守るべき立場の僕が、こんな感情を持ってはいけない。
それでも、真夜へのほの暗い執着が、心にはずっと巣食っていて。
消えたこともなければ、消したいと思ったこともない。
僕のことだけを考えて、僕のためだけに傍にいてくれればいいのに。
そう願って彼を縛り付けようとしていたのは、僕の方だった。
だから、真夜は西園寺家に、僕の傍に戻ってくるべきじゃなかったんだ。
せっかく僕から離れる機会をあげたのに。
「真夜は馬鹿だな……」
僕はベッドから降りて、感情を必死で抑えている真夜をそっと抱きしめた。
まさか僕がそんな行動をとると思っていなかったのだろう。
真夜の体がビクリと震えた。
「真夜が責任を感じる必要なんてない。僕が選んだ生き方だった」
正確には、選ばざるを得なかった生き方だが。
僕自身が、祖父のつくった鳥かごから巣立つことが怖かったのだから、同じこと。
本気で嫌なら、声を上げればよかった。助けを求めればよかった。
それができなかったのは、両親に見放された僕を傍に置いてくれていた祖父にまで嫌われたくないと思っていたから。
愛情表現は異常だったけれど、たしかに僕を守ってくれていたのは祖父だったから。
張りぼてのような家族でも、捨てることはできなかった。
「――それが一番許せない」
そう言うと、真夜は僕をきつく抱きしめた。
互いの心音が響くくらい密着して、そのぬくもりに安堵を覚える。
「俺以外の人間がお前の体に触れてきたってだけでも怒りで頭がおかしくなりそうだってのに、お前もそれを受け入れていたなんて、どうしても許せない。あの時の俺の絶望が、お前に分かるか?」
「……分かるよ。僕だって、あんな醜い姿見られたくなかった」
「お前は醜くない」
「いや、僕の体は穢れてるよ。だから、もう真夜には会いたくなかったのに」
きっと、真夜が思っているよりもずっと、僕の体は祖父の色に染まっている。
自分の体が気持ち悪くて、一日に何度もシャワーを浴びて、嘔吐を繰り返して。
それでも、もう二度と何も知らなかった頃のきれいな自分には戻れないと分かっていた。
「きれいだよ。佳月は、いつだって俺にとっての月だ」
夜空を優しく照らす月。
僕にとっての光は真夜なのに、その彼にそう言われてしまって、僕は二の句が継げなくなる。
そして、真夜は僕の額にそっと優しい口づけを落とした。
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