1 二人だけの約束


 生まれた時から、僕の容姿は恵まれていた。

 色素の薄い茶系の髪と、大きくて丸い漆黒の瞳。

 透き通るような色白の肌に、愛らしい顔立ち。

 その上、日本の財政界を牛耳る西園寺グループの子どもだ。

 何不自由のない暮らしを約束された、おぼっちゃま。

 誰もが、僕のことを羨んでいた。


 しかし、実際は不自由ばかりの生活だった。

 

 どれだけ愛らしい容姿を持っていても、政略結婚で愛のない夫婦は自分の子どもを愛そうとはしなかったし、後継ぎさえできれば役目は果たしたとばかりに互いの愛人のもとへ通うようになった。

 物心つく頃には、僕は祖父のもとへ引き取られ、両親とは別居状態だった。

 西園寺家本邸での暮らしは、常に監視されて気を抜けない日々で、皆が僕を子どもではなく、西園寺家の跡取りとして見ていた。

 順番でいえば、父が西園寺家の跡取りであるのだが、祖父は僕のことをたいそう可愛がってくれていて、すべてを僕に譲ってもいいとさえ話していたそうだ。

 これは僕がまだ幼稚園の頃の話だから、本当のところは分からないけれど。

 

「佳月、お前は本当にかわいい子だよ」


 祖父だけが、可愛がってくれていた。

 その愛情が異常であることに気づいたのはいつだっただろう。


 小学生になり、勉強も本格的に始めた頃。

 祖父は僕を寝室に読んで、勉強をみてくれるようになった。

 その優しさに素直に甘えていたが、まだ習ってもいない保健体育を教えるためにと初めて裸にされた時は抵抗した。


「佳月は西園寺家の跡取りだ。子孫を残すための方法を知らねばならん」


 そう言って、祖父は僕の体に触れて、時折口づけを落とした。

 気持ち悪くて、体が拒絶反応を起こしても、祖父の力に押さえつけられる。


「両親に見放されたお前を引き取ってやっているのは誰だ?」


 祖父の庇護下以外に、僕の居場所はない。

 逆らえば、抵抗すれば、捨てられるかもしれない。

 

「お前を本当に愛してあげられるのは、この私だけなんだよ」


 毎日、体と心に刷り込まれていくこの呪いのような愛の言葉は、次第に僕の心を殺していった。


 しかし、それでも僕がまだ自我を保っていられたのは。


「なぁ、佳月! 今日も一緒に遊ぼうぜ」


 暗闇に沈みそうになる僕の前に、パァッと光が差し込む。

 ノックもせずに僕の部屋に入ってくるのは、真夜くらいだろう。


「こら、真夜! 佳月さまでしょう? それに、ノックも忘れてる! 佳月坊っちゃま、うちの息子がいつもすみません」


「いいんですよ。詩乃さん。それに、皆がいる前では真夜はわきまえてくれていますから」


 真夜にごつんと痛そうなゲンコツをお見舞いして、詩乃さんは部屋を出て行った。

 放課後、真夜と過ごす時間が一番好きだった。

 二人で勉強をしたり、本を読んだり、流行りのゲームをしたり、学校であったことや気になっていることなど、他愛のない話をしたり。

 本邸に越して来た幼稚園児の頃から、真夜は僕の遊び相手として傍にいた。

 歳は僕より三つ上で、性格も反対で趣味も違う。

 それなのに不思議と真夜といると落ち着いた。


「真夜はさ、僕といて退屈じゃないの?」


「退屈だなんて思ったことないけど、なんで?」


「クラスの子たちに、好きなものを聞かれたんだけど、僕何も答えられなくて。他にも色々質問されたけど、分からなくて。つまらないって言われたんだ」


 勉強は嫌いではない。暗記も得意だ。

 試験ならば満点をとれる自信があるが、自分のこととなると僕は何も分からなくなる。


「僕にはきっと、心がないんだ……」


 何もない。空っぽだ。

 見てくれだけはいい人形と同じ。

 大人たちに捨てられないよう、必死にいい子を演じて、自分という存在を忘れていた。

 祖父は毎夜、僕を裸にして、体を愛撫する。

 その事実をなかったことにしたくて、無理やり心を殺していたから尚更、僕には僕自身の心が分からない。

 

「ははっ、佳月ってほんと面白いな」


「な、どうして笑うんだよ!」


「ほら、今だって。佳月にはちゃんと心があるよ」


「ど、どういうこと……?」


「心がないなら、どうして俺が笑ったことに腹を立てるんだ? それに、退屈だって言われたことに傷ついたりするわけない。今、佳月が感じているそれは、心があるからだろ?」


 にっと笑う真夜に、僕は嬉しいやら気恥ずかしいやらで、口をパクパクと馬鹿みたいに開閉することしかできない。


「なぁ、佳月。俺はお前と一緒にいて、退屈だと思ったことなんてない」


「……嘘だ」


「嘘じゃない。最初は、御曹司の遊び相手なんてって思ってたけど、俺より年下なのにすんげぇ努力してるとことか、人を気遣えるとことか、傍で見てたら、支えたいって思うようになった。従者になんて絶対なるつもりなかったんだけどさ、俺、佳月の従者にならなりたいって本気で思ってるから」


 そう言って、真っ直ぐな瞳で真夜は僕を見つめた。


「なんて、まだ俺たち小学生だけどな」


 くしゃくしゃっと頭を撫でられて、真夜がにっと笑う。


「でも、もうすぐ真夜は中学生だ。そのうち、僕のことを退屈だって思って、離れていくかもしれない」


「そんなことはない。俺は佳月の傍にずっといるよ」


「約束してくれる?」


「もちろん。今だって、最初に会った時の約束を守り続けているだろう?」


 西園寺家という肩書きが大きくて、僕は幼稚園で友達が一人もできなかった。

 そんな時に遊び相手として紹介されたのが真夜で、ようやく友達ができると喜んだのも束の間、いつかは従者になるのだと教えられて、僕は悲しくなった。


 だから、命じたのだ。


『僕と二人でいる時は、敬語は禁止する』


『どうして、そんなことをおっしゃるのですか?』


『僕には、友達がいない。将来、西園寺家の跡取りとして、人脈作りは大事だ。だから……』


『なるほど。佳月坊っちゃまは友達がほしいんですね?』


 直接的な問いに、僕はなんと答えていいか分からなくて、黙り込んだ。


『うん、いいよ。俺たちは今日から友達だ。友達だから、呼び捨てにしてもいいよな?』


 にっと笑う真夜に呆気にとられながらも、僕は頷いた。


『佳月、これからよろしくな』


 真っ直ぐに僕を見て、僕の名を呼んだのは真夜が初めてだった。

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