またねの代わりに

居酒屋に到着すると、彼女はもう先に席に着いていた。

僕が声をかけると、彼女は振り返る。

「おー、おっそいよ。お腹すいたんだけど」

「わりぃ、仕事長引いた」

彼女は待ちきれない様子で居酒屋のメニューを開いて、すでに品定めをしていた。お腹がすくと、彼女はいつもすこしだけ機嫌が悪くなっていたのは、あの頃から変わっていない。

「ほら、飲み物はやく決めて。あたしもう決まってるから」

「いま着いたばっかなんだから、そんなせかすなって」

「うっさい、こっちは待ちくたびれてんだって。ちゃちゃっと決めちゃって」

「じゃあ、生」

「なにそれ、だったら最初からメニューみんなし」

「いや、おまえがはやく決めろって言ったんだろ」

僕は、まったくと思いながら、店員を呼び生ビールを注文した。続けて彼女はカルーアミルクを注文する。

いつも思うのは、よくそんな甘ったるいものと一緒にごはんが食べられるものだなと感心する。

飲み物に続けて、メニューからつまみに、塩キャベツ、串焼き盛り合わせ、枝豆などをいくつかチョイスして注文した。

店内はにぎわっていて、仕事帰りのサラリーマンたちの席から大笑いする声が聞こえてくる。

程なく生ビールとカルーアミルクが運ばれてきた。僕と彼女は乾杯かんぱいをして、すぐにひと口飲み物をあおった。ビールの苦味が仕事で疲れたからだにしみる。

「そういえばさ、前に行った遊園地、あそこ、なくなるんだって」

「へえ、そうなんだ、それは知らなかった」

「なんかこの前、Twitterで見かけてさー。前に住んでたとこ近かったから、よく行ったよねー」

彼女は多少の酔いがまわりはじめると、ふたりで何度か行った遊園地の話をはじめた。

そうか、閉園するのかと、僕はすこしさびしい気持ちになった。

僕と彼女が暮らしたアパートから、わりと手頃な距離にあったので、なにも予定のない休日などは午後からふらっと出かけて通っていたのだった。

「あんたさ、最初ジェットコースターに乗るとき、めちゃくちゃびびってたよね」

彼女は意地の悪そうな顔で言う。

「いやいや、ふつう苦手って言ってるひと、無理やり乗せないでしょ、ジェットコースター」

僕はもともと絶叫マシンが大の苦手だった。下り坂を滑走するときの、あの胃が持ち上がるような気持ちの悪さに、辟易へきえきしたものだ。

「あのさ、あそこのジェットコースターなんて大したことないから。それに、ちゃんと乗れるようになってたじゃん」

「いや、ふざけんなって。毎回死にそーだったわ」

「そういや降りたあとすぐ、ふらふらしすぎて階段踏み外してたよね」

彼女はそれを思い出し、お腹を抱えて笑った。

「いや、笑いすぎ!そんなこと言ったらそっちこそ、料理作ったときすみくずみたいな豚肉炒め作って、誰だよ、料理できるって言ってたの」

そう僕が彼女に言って、仕返しに大笑いしてやった。

「はあー?だれのために作ったと思ってんの。それにできるとは言ったけど、得意とは言ってませんー!って、ちょ、笑うなし!」

そうやって、僕と彼女はあの頃を思い出してはお互いに大笑いした。笑いすぎてお腹が痛くなったほどだ。


彼女とは、こんなふうにいつも笑い合っていた。

出会ったときから、付き合ってから、それは変わらずに、ずっと続くと思っていた。

でも、そうじゃなかった。

いつの頃からだろうか、ケンカばかりするようになった。いま思い出してみても、なにがきっかけでケンカになったのか、どの場面を思い返してみてもわからない。

次第に彼女は笑顔の代わりに、怒ったり泣いたりをすることが増えていった。どうしたらあの笑ってばかりだったあの頃に戻れるのか。そのときの僕にはわからなかった。いや、きっといまの僕にだって、わからないだろう。

だから、僕たちは別れたのだ。

あっけないくらいに、僕たちは簡単かんたんに別れた。

もういい、あたし、出ていくから。

ああ、勝手に出てけよ。

そうやって言い合いしたその翌日、彼女は部屋からいなくなっていた。

一緒に住んでいた部屋から彼女は自分の荷物を僕がいない間にまとめ、僕があの日、家に帰ったときにはもう彼女の住んでいた面影は、部屋の隅っこに落ちている髪の毛くらいしか残っていなかった。

それから何度か彼女に電話をかけた。

だがつながらなかった。

不思議と悲しくはなかった。

彼女が大好きだったから、失いたくなかったはずだった。

でも、彼女が大好きだったからこそ、これ以上彼女の怒った顔や泣いた顔を見たくはなかった。

だから悲しさよりも、例えばずっと鑑賞かんしょうしていたはげしいコンサートの演目が、突然フィナーレを迎えたような、そんな気持ちだった。

彼女に電話をかけたのは、ただ声を聞きたかったから。なにを話そうとしていたのかは、わからない。もちろん復縁したいなんて、言うつもりはなかった。だが、それはそのときは叶わなかった。

そう、彼女から連絡がくるまでは。


彼女から連絡がきたのは、僕たちが別れてから三ヶ月後のことだった。

僕は彼女と一緒に住んだ家を引き払って、実家に戻っていた。とはいっても、実家はそんなに遠くなく、同じ首都圏しゅとけんにある、すこし交通の便が悪い程度の場所だ。

電話に出ると、「久しぶり、元気?」と懐かしい声が聞こえた。懐かしい、けれどなにも変わっていない彼女の声の感じに、僕はつい昨日も電話をしたかのように話しかけた。

そうして、今度飲みに行こうという話になったのだ。


「つかさ、ほんと変わんないよねー。もうすこし成長しなよ」

「はあ? それはおれのセリフだから。おまえだって、もうすこしかわいげがあればな」

違う、そうじゃない。じゅうぶん彼女にはかわいげがある。それを当たり前に思いすぎてしまった。

「いやいや、あんたに言われたくないから。それにいまだからぶっちゃけるけど、あんたホントに隠しごととか下手だったよね。誕生日にサプライズしようとしてたのバレバレだったし、あたしと一緒に街歩いてても可愛い女の子とすれ違うと、すーぐ目がそっちいくし」

「いやいや、え、つーかそれいま言う? ひどいわー」

そうじゃない、彼女は今まで、なにも言わないでいてくれていたのだ。


懐かしい話、ありきたりな話、お互いのぶっちゃけトーク。

そうして話すうちに、時間はまたたく間に過ぎていった。

そうして彼女がふと、スマートフォンの画面に目を向けた。

「あ、やばっ。もうそろそろ行かなきゃ」

彼女がそう言ったので、僕も時間を確認した。

「お、もうそんな時間か」

知らない間に終電の時間が迫っていた。

彼女はこのあと約束があると言った。もう夜も更けている。

僕は彼女へどんな約束があるのかは聞かなかった。もう聞く権利もないのだと思った。

ふたりで割り勘にして居酒屋の会計を済ませ、僕たちは店の外に出た。

「うわ、さっむ」

彼女はそう言って、身をすくめた。

「さみいな」

僕はつぶやくように言った。

季節は二月、冬の夜は風が冷たかった。

「あ、そうだ」彼女は思い出したように言った。「もうお互い連絡先、いらないでしょ、消しちゃおうよ」

「そっか、それもそうだな」

彼女がなんでもないことのように言ったので、僕もなんでもないことのように返事をした。

そして、まるでそれが通過儀礼つうかぎれいであるかのように、ふたりでお互いの電話番号とSNSの登録を削除した。

そうすると、あっけなくこれまでのふたりの履歴はなくなってしまった。

「じゃあ、もういくね」

彼女は笑顔で言った。

僕はこういうとき、なんて言えばいいのだろう。

さよならだろうか、なんか違う気がした。

ありがとう、これも違う気がした。

彼女はこれから彼女の人生を歩き出す。そこには僕の存在はもうないのだ。僕は僕の新しい人生を、新しい恋愛を見つける。さよならも、ありがとうもいらない。ただ、お互いの別れ道がいま目の前にあり、お互いの道を進んでいくだけなのだ。

付き合っていた頃なら、またねと言っていただろう。

でも僕たちは、もう会うことはない。

これから先、どこかでばったりと出会っても、もうあの頃の僕たちじゃない。

だから、いま僕が彼女にまたねの代わりにいう言葉。

「おう、じゃあな」

僕なりの笑顔で、それだけ言った。

なんでもないことのように、付き合っていた頃当たり前に言っていたように、明日もまたすぐに会うかのように。

そしてすぐに彼女は駅の雑踏ざっとうのなかに紛れて見えなくなった。


あんなに好きだった人と別れること、当時は思いもしなかった。当たり前にずっと一緒にいると思っていた。

きっとこれから彼女は新しい恋愛をして、次かその次か、それはわからないけれど、僕の知らない誰かと一緒になるのだろう。

彼女と別れて、もうどんな恋愛もうまくいくことはないだろうと思った。でも、もしかしたら、きっと僕もこれから新しい恋愛をして、いつか将来一緒になる人を見つけるのかもしれない。

きっと恋愛とは、そういうものだ。

笑顔で見送ったはずの彼女。

だが彼女の姿が見えなくなって、連絡する手段もなくなって、どうしてだろう、今さらのように涙があふれて止まらなくなった。

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またねの代わりに 木幡光 @hikarunpages

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