第8話
階段を降りて居間へ行くと、そこには螢一さんがおられました。
「螢一さん。もうお出かけになりますか?」
「はい。早速着物を着ていただいてありがとうございます。とてもよくお似合いです。菫さんのために作られたのだと思うほど、よくお似合いです」
まっすぐ見つめる優しい瞳。
「あ、ありがとう……ございます」
褒められることは慣れていません。想像していた言葉よりも褒められるなんて、思ってもいませんでしたから、きっと私の頬は紅潮し、桃に染まっていることでしょう。
「数日前、その着物を見た時に、菫さんの顔が浮かんだのです。きっと似合うだろうと思いましたし、何より、菫さんが着るべきだと思いました」
「私が、着るべき……」
「はい。なので、着ていただけてよかったです」
「私…………」
ひと呼吸置いて、言葉を続けました。
「私、このお着物、とてもとても気に入りました。贈っていただけて、本当に嬉しかったです。こうやって贈り物をされるのは、初めてだったので……」
「お気に召したようで安心しました。欲しいものがあればいつでも言ってください。僕は、菫さんの笑顔が見たいのです」
そうだ、私……。螢一さんの前で、笑えていなかったのね。
そして私は、ゆっくりと口角を上げて、こう言います。
「ありがとうございます」
螢一さんのお顔は、時が止まったように固まりました。窓から吹く風だけが時を動かし、表情は面を食らったように止まったのです。
そして、ふっと表情が変わり、また微笑んだのです。
「僕はどうにも、一目惚れしてしまったようです」
「…………一目惚れ?」
「もう僕は、菫さんの微笑みを忘れることはないでしょう。その微笑みに肥やされて、死んでゆきたいです」
私は、口を開けて固まりました。
何も言い返せなかったのです。
その言葉を愛情と言うのなら、きっと本物に違いありません。
柳螢一という男は、罪深く、私の心を蝕んでいくに違いありません。愛情という刃物で丁寧に傷つけ、その名前を刻むことでしょう。そう思ってしまうほど、言葉は深く刺さりました。
「それでは、いきましょうか」
「は、はい……!」
そして、私たちは家を出て、横並びに歩き出しました。
秋空は高く、薄青く滲んでおりました。
「秋の空気は心地よいですね」
「そうですね。螢一さんはあまりお外に出られないのですか?」
「はい。買い物をする時くらいしか出ませんね。どうにもアトリエに入り浸ってしまって」
螢一さんの一日の行動は決まっておられました。
朝食を食べアトリエに行き、昼食を食べアトリへに、そして夕食を食べて少しアトリエに行ってからお風呂に入り、寝室で本をお読みになるのです。お仕事……人形を作ることが中心の生活でした。
「馬車を使うべきなのでしょうが、歩いて向かいたいです。構いませんか?」
「はい。もちろん構いません。ここから近いのですか?」
「えぇ、歩いて行ける距離です。ですが、歩いた方が菫さんと過ごせる時間が長くなるではありませんか」
「は、はい……! そうですね……!」
螢一さんは時より、どきりとさせる言葉を口にします。
恥ずかしげもなく言う言葉たちは、私の心を染めようとしてくるのです。
もちろん私は、このような言葉を言われたことなどありません。どう返事をするのが良いのかもわかりませんから、曖昧な言葉で誤魔化してしまうのです。
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夜長の婚約者 一 杞憂 @HajimeKiyuu
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