第7話
数日が経った頃。
螢一さんは人形のことばかりで、何事もなければ、ひとときもアトリエを離れません。
私は二時間おきのお茶を汲むのです。お昼や夕飯の支度をしつつ、急須と茶菓子を持ってアトリエに足を運ぶことが常になりました。
アトリエに入るのは、今でも緊張します。
お仕事の場、ということもありますが、やはり人形がどうしても怖いのです。
螢一さんにとって大切なものだとはわかっています。わかっていても、不気味に思ってしまうのです。
私は急須と羊羹を持ち、アトリエの前に立ちました。
コンコンと軽く扉を叩くと、「はい」と螢一さんの声が聞こえます。
「お茶と羊羹をお持ちしました。入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ、お入りください」
「失礼します」
扉を開けて中に入ると、視界に入るのは球体関節人形たちです。
人形たちは様々な姿、表情を私に向けるのです。
視線の行末に迷い、螢一さんだけを見るよう必死になります。怖いものを見ないようにと目を瞑るようなものです。
「こちら羊羹です。お茶をお汲みしますね」
そう言って羊羹を螢一さんの傍に置き、空いた湯呑みにお茶を注ぎました。
「ありがとうございます。この家の生活には慣れましたか?」
「は、はい。とても住み心地が良くて、贅沢だと思います」
螢一さんの手元を見ると、色のついていない頭だけの人形がありました。どうやら今から色をつける作業のようです。目を瞑った人形は、今にでも目を開けるのではないかとすら思いました。
「それはよかったです。それから、お願いがあるのですが」
「……お願い、ですか?」
「僕と一緒に紅葉でも見に行きませんか。家にいては、どうしても人形ばかりになってしまって、菫さんとの時間を作られないので。あと少しでお昼になりますし、紅葉を見ながら団子でも食べましょう」
「もちろんでございます。楽しみにしております」
そう返事をすると、螢一さんは優しい瞳で微笑みました。
「それでは、もう少ししたら出かける準備を致しましょう。菫さんの新しい着物を用意していたので、それを着ていただけると嬉しいです」
「私のお着物……ですか?」
「菫さんの部屋に置いているので、是非着てください」
螢一さんから、「菫さんの部屋として使ってください」と与えられた部屋がありますが、ほとんど使っておりませんでした。寝る時は寝室にいますし、日中は家事ばかりで、休むとしても居間におりました。
「承知しました。ありがとうございます。それでは、失礼致します」
私はお辞儀をしてからアトリエを後にしました。
パタリと扉が閉まり、急須や羊羹を乗せていた盆を片付けに調理場へ向かいます。
「…………せっかく与えられたのに、使わないのは失礼ですよね」
与えられた部屋は、私一人が生活するにはあまりに広い部屋です。
普段あまり使用しないこともあって、着物が置かれていたことすらわかりませんでした。
寝巻きや着物を着替えるにしても、同じ収納ばかり使っておりましたから気がつきませんでした。
調理場に盆と急須を仕舞い、二階にある自室へ向かいます。
階段を登って左に曲がり、廊下を少し歩くと辿り着きます。
扉を開け、統一された西洋風の部屋が現れると、チェストと言う白い洋箪笥の前に向かいました。
「どこにあるのかしら」
いつも使っているのは一段目と二段目の引き出しです。着物や寝巻きはほとんど持ってきていませんから、二段で済んでしまうのです。
普段使っていることろにはないだろうと、私は三段目の引き出しを開けました。
すると、
「これかしら」
入っていた灰白色の着物を取り出し広げてみると、そこには美しい染色の菫が咲き誇っておりました。
「まぁ……とっても素敵……」
菫色の着物は持っておりましたが、こんなにも質の良い生地に染められた菫の咲く着物は、もちろん持っておりませんでした。
素敵な着物をもらったことも大変嬉しかったのですが、何よりも、私のために選んでくれて、私のために贈ってくれたということが嬉しかったのです。
人形をお作りになる芸術家ということもあって、きっと着物の目利きもいいのでしょうか。
「…………あら?」
ふと着物を取り出した引き出しを見ると、そこには白と薄紫色の花を模った髪飾りがポツリと在りました。
「これも素敵だわ……」
私は、過去に父以外の男性から贈り物をいただいたことがありませんでした。
それは俊一郎さんと婚約した時でも、ありませんでした。俊一郎さんからは、何一ついただいていません。きっとそれは、愛情すらも……。
「……贈り物をいただくって、こんなにも嬉しいのですね」
私は着物を優しく抱きしめ、真新しいその香りを纏いました。
螢一さんの香りばかりが漂うこの家で、この着物はまだ、染まっていませんでした。
いつか染まってゆくのです。きっと、私の心と共に。
「あぁ、既に染まりかけているのだわ。この揺蕩うようなお気持ち、螢一さんの匂いに塗れて染まっていくのね」
たった一つ二つの贈り物でも、特別な気持ちになってしまうのです。
私は自らが乙女である自覚がありませんでした。恋はせずとも、乙女になれるのでしょう。螢一さんから向けられたこの思いは、愛情なのか、これから続く生活への挨拶なのか、わかりません。だけれども私は、このひとときは乙女になったのです。
私は部屋に置いてある姿見の前で、新しい菫の着物に着替えました。
紫がかった長い髪には送られた花の髪飾りをつけ、少しでも美しくあろうとしたのです。
「ふふっ」
くるりと回ってみせました。
誰もいないこの部屋で、私が在るだけのこの部屋で、乙女のふりをしたのです。
「似合っていると、言われるでしょうか」
まるで幼な子のように、純粋な心でありました。いつかの気持ちを思い出すような……。
菫の咲く着物を纏って、私は長い髪を弄び、微笑むのです。
「少しは、上手く笑えるようになれました」
この姿を俊一郎さんが見たら、なんと言うでしょうか。美しいと、愛しいと言うでしょうか。いえ、きっと言いません。だけども、そう言われたかったのです。愛しさなどもうないのだと思っていましたが、螢一さんの顔が思い浮かんだ後、薄らと浮かび上がるのです。笑みなど向けぬその顔が。
色素の薄い茶の髪に、切れ長の瞳、そして笑わぬ薄い唇。一度愛した男です。忘れたいと思うほどに、その顔は浮かび上がりました。
「いけません。今の旦那様は螢一さんなのです」
私は顔を振って、浮かぶ顔を消そうと必死になります。
「…………私の旦那様は、螢一さんなのです」
言い聞かせるように呟きました。俯き、ゆっくりと息を吸い込んで、「ふぅ」と吐きます。
そして私は、部屋を後にしました。
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