第6話

 そうして再び眠り、起きた頃には朝でした。

 眩い朝日で身体を起こすと、螢一さんはまだ眠っておられました。

 起こさないように、そっとベッドから出て、寝室を後にしました。


 着物に着替え、調理場へ向かう前に、私はアトリエへと足を運びました。

 しんと静かな廊下を通り、アトリエの前に来ると、音を立てないようゆっくり扉を開けました。


 扉の先に広がるのは、夢で見たような沢山の球体関節人形。

 ぞわりと小さく震える身体。思い起こすのは恐怖心でした。


「私は、ここにいたらおかしくなってしまうのではないでしょうか……」


 そう思って、扉を静かに閉めました。

 その後は調理場へ向かい、朝食の準備を済ませ、テーブルに並べると螢一さんがやってきました。


「おはようございます。眠れましたか?」

「……は、はい。眠れました」


 私は嘘をつきました。まさか、悪夢を見たなど言えるわけがありません。


「それはよかったです。とても美味しそうな朝食ですね」

「煮込み料理を多く作りました。きっと螢一さんがお食べになっていないだろうと思いまして……」

「ありがとうございます。冷めないうちにいただきましょう」


 螢一さんは席につき、私も追うように座りました。


「それでは、いただきます」

「……いただきます」


 螢一さんと私は手を合わせてから、箸を取りました。

 豚汁から口をつけ、ゴクリと飲み込むと穏やかな表情になりました。


「とても美味しいです。菫さんもお食べください」

「…………あの」

「はい、なんでしょう?」


 私の心に引っかかっていた疑問。投げかけても良いのかと不安になりますが、螢一さんのことを知るべきだと思い決心しました。


「なぜ、初夜でしたのに昨晩は手を出さなかったのでしょうか。私には、女としての魅力がなかったのでしょうか」

「…………」


 予想だにしなかった言葉を受けた、のだと言うような顔をなさいました。

 お食事時に話すことでもありませんが、どうしても気になったのです。

 そして私は言葉を続けます。


「私はキズものです。傷んだ果物のようなものなのです。以前婚約者のいた身ですから、汚れていることに違いはありません」


 螢一さんは箸を置いて、じぃと私を見つめました。その表情は至って真剣で、刺さるような視線でした。


「前の婚約者は、すぐ体をお求めになる方でした。それが、愛の芽生えや育みであったのだと……」


 そう言うと、螢一さんはこう言います。


「僕は、肉体に愛は宿らないと思っています。愛情はあくまで、精神という器の中にしかすぎないのです」


 肉体に、愛は宿らない……。


「…………しかし」


「肉体に愛を刻むとは、ひとえに傷つけることと同義なのです。僕に傷つけられたいと思うのであれば、考えます。しかし、僕は菫さんを傷つけたくなどありません。その肌を知るには、傷つける覚悟がありませんので」


 はっとしました。

 傷をつけることと同義。それは、私が一番よくわかっています。


「甘い痛みは失ってからではないと気が付かないのです。菫さんが傷んだ果実だと言うように、傷になってしまうのです」


 螢一さんの言うことが、痛いほどわかりました。

 俊一郎さんに求められていた時は、喜びだと思っておりました。しかし、俊一郎さんと別れてからは後悔が募るばかりだったのです。この身体のせいで、もう婚約はできないと思っておりましたから……。


 そして、螢一さんの言葉を聞いて、私は螢一さんに少しの信頼が芽生えました。


「そのように思ってくださる方がいるだなんて驚きました」

「僕はただ、菫さんを大切にしたいだけです」


 心臓の高鳴る感覚が在りました。

 その視線はひたすらにまっすぐで、歪むことなく私の心を貫いたのです。


 あぁ、螢一さんの瞳の奥を知りたい。


 そう思ってしまうほど、私の心は突き動かされてしまったのです。


「情けないと笑ってください」

「まさか、そんなこと思いません。……でも、でも私は、螢一さんに失礼なことを思ってしまいました。心から謝罪させてください」

「いいんです、謝らないでください。さて、朝食を食べましょう。冷めてしまいます」

「はい……!」


 これから、私と螢一さんの生活が続いていくのだと、そう思いました。

 こんなにも心優しいお方がずっと一人だったなんて……。そう思ってしまうほど、螢一さんの穏やかな心は、私に伝わっておりました。


 昨晩の悪夢、アトリエの人形たち。

 気味が悪いと拒絶した私を許してほしいとすら思いました。


 寄り添おうとしなかったのは、私です。きっと螢一さんを傷つけたに違いありません。

 きっと見慣れれば平気になるだろう。


 螢一さんに寄り添って、同じ目線で見つめて、尊敬の念を絶やしてはいけないのだと。そう思いました。

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