第5話

 もう調理をすることはなくなり、私は火を止めて、調理場を出ます。

 心臓はどくりと大きく脈打っています。

 向かう先は寝室です。


 廊下を渡り、階段を登って、右に曲がります。

 寝室には灯りが付いていました。きっと螢一さんがおられます。


「…………ふぅ」


 息を整えて、扉を軽く叩きます。


「入ってもよろしいでしょうか」

「はい。どうぞ」


 ガチャリと音を立てて、扉を開けます。

 光が差し込み視界が開けると、広々とした寝室が顕になりました。


「朝食の下拵えが終わったのですか? お疲れ様です」


 そう言う螢一さんは、傍にある机を前に座っていました。

 ベッドはとても大きく、人が三人眠れるのではないかという大きさです。ベッドに繋がる天蓋からは布が垂れており、それは西洋の姫君のベッドを彷彿とさせました。


「とても素敵なお部屋……」

「ありがとうございます。どうぞ横になってください」

「は、はい。失礼します」


 私は促されるまま、ベッドへ向かい横になりました。

 初めてのベッド。布団よりも柔らかく、沈み込む身体は優しく包まれているようでした。


 そして、微睡むように甘美な香りが致しました。

 これは、螢一さんの香りなのでしょうか。


 螢一さんの方を向くと、こちらを見ることなく、机に向かっておりました。


「……あ、あの」


 弾けそうな心臓を隠しながら、私は声をかけました。

 螢一さんがゆっくりとこちらを振り返ります。


「どうしましたか? やはり眠れませんか?」

「い、いえ……!」


 私から持ちかけるなど恥ずかしいと思い、口に出すことはできませんでした。


「灯りは暗くしますので、ゆっくりお休みください」


 そう言って螢一さんは灯りを小さくすると、再び机に向かいました。よく見ると、本を読んでいるようです。

 私は、落ち着かない心のまま、ベッドに沈みました。


 ◇◇◇


 真っ暗。

 上も下も暗闇に閉ざされ、灯りがポツリともありません。


「ここは、どこ……?」


 ガタンと大きな音が響き、身を震わせる。


「…………どなたですか?」


 カァっと明るくなったかと思うと、長い廊下の先には西洋人形がいたのです。


「…………螢一さん?」


 瞬きをすると、ジワリ、ジワリと人形が近づいてくるのです。


「いやっ……! 来ないで……!」


 私は恐怖心に駆られ、後退りします。

 それでも人形は、瞬きをする度に迫ってくるのです。


「…………やめて!」


 遂には走り出し、人形から逃れようとしました。

 けれども廊下はどこまでも続き、左右を見ても扉などないのです。


「……はぁ……はぁ」


 力のない私は、走ることもままならなくなり、ペタリと床を見つめるように倒れるのです。

 咄嗟に後ろを向くと、そこには――


「やめ……て…………」


 表情ひとつ変わらない人形が在ったのです。




 ――動けない。

 再び真っ暗になったかと思うと、身体が動きません。

 ――助けて。

 口すら動かず、声が出ないのです。


 金縛り。きっと金縛りにあったのだわ。

 そう思うと、先ほどのようにパッと明るくなりました。

 ――何これ。


 視界に広がるのは、あのアトリエです。

 沢山の球体関節人形が並び、不気味に存在していました。

 すると、目の前に人が来たのです。


 ――螢一さん……!

 螢一さんが私の前に立つと、ひょいと持ち上げました。


「うーん。いい出来だ。これはいい作品になるぞ」


 私を見てそう言うのです。いい出来? 作品? 何のことでしょうと思いました。


「やっぱり、人形はいいなぁ」


 ――私が、人形?


 ◇◇◇


「――はっ」


 目を開けると、甘美な匂いが在りました。これは、螢一さんの香り。

 薄暗い中隣を見ると、螢一さんが寝息を立てて眠っていました。


「…………夢」


 ほっと胸を撫で下ろし、肩の力が抜けます。身体は冷や汗で湿っていました。

 久しぶりに見た悪夢でした。最近見る夢といえば、俊一郎さんとの幸せな生活ばかりでしたから、汗をかくほどの悪夢など何年ぶりでしょう。


 それに……。

 私は手を出されませんでした。


 螢一さんは、私を女と見ていないのかもしれませんが、少しばかり安心したのです。


 でも、それは疑問にもなりました。

 初夜に行為をすることは当たり前だと思っていたからです。

 私は螢一さんの考えていることが、わかりません。


 心に雲がかかったような気分でした。すっきりと晴れない気持ちでしたから、明日になれば聞いてみようと、そう思いました。

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