第3話

 帰宅して扉を開けても、人がいないかのようにしんと静かな家。

 玄関の履物を見てしまうのは、あの時からの癖なのでしょうか。


「ただいま戻りました」


 決して大きな声は出さずそう呟いてから、履物を脱いで玄関に上がる。

 寄り道することなく、調理場へ向かいお夕飯の支度をするのでした。

 調理場は使いやすく、不便はありませんでしたが、広々としていたため移動が忙しなく大変でした。


 完成したお料理を居間へと運びます。西洋皿に盛り付けられたお料理と、味のあるお茶碗を盆に乗せて、テーブルへ並べます。

 何度か往復をして並び終えると、私はアトリエに向かいました。


「…………」


 アトリエの扉の前で立ち止まり、ドアノブに手を伸ばしますが、手には迷いが現れていました。

 伸ばしかけた手を一度下ろして、ぎゅうと目を瞑って軽く扉を叩きます。


「螢一さん。お食事の準備ができました」


 そうすると、中から、


「はい。今行きます」


 足音が近づいてきて、ガチャリと扉が開く音がしました。


「どうしたのですか?」

「あっ、いえ……!」


 咄嗟に目を開けると、視界には螢一さんの胸元が映ります。既に扉は閉まっていて、私が人形を目にすることはありませんでした。

 ほっと胸を撫で下ろし、螢一さんを見上げます。


「それでは、行きましょう」


 そう言い、ゆっくりとした足取りで居間へ向かう螢一さんの後を追いかけました。

 居間へ戻ると、お料理の美味しそうな香りが漂ってきます。


「とても美味しそうですね。こんなにきちんとしたお食事をいただくなんて、何ヶ月ぶりでしょう」


 嬉しそうな螢一さんの表情に、どこか安堵しました。

 お料理には自信がありましたが、人の好みとは無限大です。まして初めて出会った人の味覚など、知る由もありません。


 椅子に座り、向かい合います。その時も、螢一さんは笑みを崩さずにいました。


「それじゃあ、いただきます」


 螢一さんが手を合わせて、箸を持とうとしますが、手を止めました。


「どうなさいましたか。何か、食べられないものでも……」


 私の中には焦燥感が湧き上がっていました。

 過去に茶碗を投げられた経験もありますから、その光景が甦り、冷や汗が出そうになるのです。


「いえ、菫さんは食べようとしないのですか?」

「…………はい?」

「箸に手を伸ばさなかったので、お食べにならないのかと。どこか具合が悪いのですか?」

「あ、いえ……! まずは旦那様に食べていただくのが……!」


 螢一さんは、不思議そうなお顔をなさいました。まるで言っていることがわからないと、そういった表情でした。


「一緒に食べましょう。食べ始める順序など、気にしないでください。さて、温かいうちに食べましょうか」

「…………は、はい!」


 初めての感覚でした。

 小さい頃から教わってきたのは、旦那様から食べ始めるということ。

 それは俊一郎さんといた時もそうでした。むしろ、俊一郎さんの時は、食べ終わるまで待っていたほどです。


「……いただきます」


 ゆっくり箸を持つと、螢一さんは微笑むのでした。


「これはなんですか? 食べ物に詳しくなくて……」

「そちらは秋鯖でございます。魚屋さんに脂がのっていて美味しいと言われましたので……」


 螢一さんは、秋鯖をちょいと箸でつつき、身を小さくほぐすと口の中に運びました。

 すると、驚いたように瞳を大きくしたのです。


「久しぶりに魚を食べました。こんなに美味しかったのですね」

「それはよかったです」


 そうしてお食事を食べ進めました。

 多少の緊張があり、いつもより味を感じられませんでしたが、螢一さんの満足そうな顔には安心しました。


「ご馳走様でした。とても美味しかったです。本当にお料理が上手なのですね」

「ありがとうございます。食べたいものがあれば、いつでもお申し付けください」

「僕はこの後、少し仕事をしてからお風呂に入ろうと思うので、先に入っていても大丈夫ですよ」

「えっ。先に入るだなんて……そんな」


 私の言葉を聞いて不思議そうな顔を浮かべる螢一さん。


「僕、何かおかしなことを言いましたか?」

「いえ……! おかしなことでは……」

「それでは、何かあればアトリエまで来てください」


 螢一さんは立ち上がり、食べ終えた食器を片付けようとするのでした。


「わ、私がお片づけいたしますので……!」

「そうですか? 何から何まですみません。本音を言うと、あまり手を水につけたくないのです」

「それは、どうしてでしょう……?」

「人形作りは繊細な作業ばかりです。指先の感覚を大切にしたいので、手が切れてしまったら困りますから」


 私は人形作りについて何も知りません。

 恐ろしいとさえ思うあの人形に指先までこだわる姿勢は、真剣に向き合っている証なのでしょう。まだ結論は出していないとはいえ、今は私の旦那様です。怖がっていても、尊敬の念は忘れてはいけないのだと思い出しました。


「掃除、湯沸かし、片付けや洗い物、料理や洗濯など、家事は私が致しますので、螢一さんはお仕事に専念なさってください」


「…………えっと。大変ではありませんか?」

「……はい?」

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