第1話
その日は、木々も空も赤に熟れた模様でした。
「行ってまいります」
戸を閉めて、秋空に身体を浸す。ゆっくりと瞳を閉じてから、また開く。
菫色の着物を纏い、隣町にある柳螢一さんの家へと向かうのです。
秋に染まった町並みを小さな歩幅で歩いて、跳ねる心臓を抑えようと必死になりました。
初めて俊一郎さんの家へ向かった時を思い出します。その時と違うのは、心の色です。
俊一郎さんの家に向かった時は、婚約者との幸せな生活を夢に描き、下がることのない口角に浮き足だって向かいました。
だけれども今は、不安や緊張に塗れて仕方がありません。
私はまた捨てられるのでしょうか。
見知らぬ女性の声を聞くたびに、視線が定まらなくなったのはいつからでしょう。
もう涙は流したくありません。流すならせめて、嬉し涙が良いのです。
地図を見ながら、間違えぬよう頭や視線を動かして確認し、隣町までやってきました。
隣町は、資産家や地主などが多く住む町です。まるで私の住む町とは違います。
「……この辺りでしょうか」
地図に示された辺りにやってきて、立ち止まる。
地図には「茶色の屋根の西洋風建築」と書いておりました。この辺りでも珍しい西洋建築ですから、とても目立つでしょう。
「あっ」
離れた先に、大きな西洋建築の建物が在りました。
ドクンと跳ねる心臓を落ち着かせるために、深呼吸をしてから、その建物に向かって歩き出します。
「大きなお家……」
和風建築に囲まれ、一際大きな西洋建築はとても目立ちました。
ここにたった一人で暮らしているというのは本当なのでしょうか。御給仕さんはいらっしゃらないのかしら。なんて疑問が浮かんできます。
私は大きな扉の前に立ち、ドアノッカーを使ってコンコンと二回鳴らしました。
「ごめんください」
しんと静かな空気が流れてから、ガチャリと扉が開きました。
緊張をぶら下げて、私は現れた姿を視界に映しました。
「はい。どなたでしょうか」
穏やかな声を持ったお方でした。
無造作でまとまりのない真っ黒な髪に、よれた藍色のお着物。まるで無頓着な様子に、どこか安心しました。
「私は、
「あぁ、菫さんですか。僕は
その微笑みはどこまでも優しそうで、俊一郎さんから向けられなかった笑みを直ぐ様得られたのでした。
「失礼致します」
広い玄関口に香ってくるのは、花の香りでした。
隣に立つと、螢一さんの背が高いことがわかりました。お着物に隠れてもわかるスラリと長い手足に、陶器のように白い肌。口元にある黒子は螢一さんのお顔を特徴付けておりました。
螢一さんに案内され、居間へと向かいました。
長い廊下を進み、居間へ続く扉が開かれると、それは広い部屋が現れました。
部屋にはアンティークが置かれ、どれも高級そうで壊してしまったらと考えると怖くなるものばかりでした。
「とても素敵なお部屋です」
「ありがとうございます。気に入ってくれたら嬉しいです。どうぞこちらにお座りください」
「はい。失礼します」
色とりどりの花が生けられた花瓶が中央にある大きなテーブル。私は装飾の美しい椅子へと腰掛けました。
その頃には、緊張していた気持ちがどこかへ消えていきました。
螢一さんが向かい合って椅子に座り、私を見つめます。
改めて見ると、無造作な髪に隠れていましたが、造形の整ったお顔立ちでした。
「改めまして、紫吹菫と申します。この度は縁談のお話をいただきありがとうございました。このような人間ではございますが、何卒よろしくお願い致します」
きょとんとした螢一さんのお顔。
二回ほど頬を掻いて、螢一さんはこう言います。
「柳螢一です。このような人間だなんて言わないでください。とても素敵な方で驚きました。よろしくお願いします」
窓から吹く秋風が頬を撫で、螢一さんの髪を揺らしました。
揺れる前髪から覗く瞳は、透き通っていて、輝きが在りました。真っ直ぐな視線を受け止めて、私は息を飲みました。
「私にできることは何なりとお申し付けください。ご迷惑をおかけすることもありますが、柳家の名に恥じぬよう、精一杯努めさせていただきます」
そして、私は不安に耐えられなくなり、こう続けます。
「私は、以前婚約者のいた身でございます。そのことはお伝えされているのでしょうか」
「えぇ、わかっています。わかった上での縁談です」
その言葉に安堵しました。胸を撫で下ろし、肩の力が抜けます。
「ではなぜ……」
「僕の仕事についてお話しなればいけません」
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