夜長の婚約者
一 杞憂
プロローグ
――私は、幸せな家庭を築くはずでした。
見慣れてきた扉をガラリと開けて、ただいま帰りましたと言うために息を吸う。
だけれども、見えたのは残酷な景色だったのです。
「…………また、知らないお履物」
明らかに女性ものの履物は、婚約者である
何度目でしょうか。
寝室の方から聞こえるのは、若い女性と俊一郎さんの笑い声でした。
私の前で笑うことのない俊一郎さんは、別の女性の前では沢山笑うのです。私に見せぬ微笑みを向けるのです。
涙。
じんと熱くなった瞳から、心の温度と程遠いぬるい涙が流れるのです。
私は人気のない居間へ行き、真白な紙切れを取り出してこう書きました。
私はもう出て行きます。
今まで、俊一郎さんにはお世話になりました。
ご期待に応えられない婚約者で申し訳ありません。
お荷物は全て捨ててください。もう取りに戻ることはありません。
俊一郎さんが幸せになることを願っています。
涙が染みた紙切れを机に置いて、私は家を出ました。
もう戻ることはないのだと決心して、両親のいる実家へと戻ったのです。
最後、家を後にする時振り返ってしまったのは、心残りからなのでしょうか。それとも、愛されなかった悲しみからなのでしょうか。
雨でも降ってやくれないかと思うほど、濡れた頬は風で冷え、絶えぬ涙は弱き心の表れでした。
頭の中には俊一郎さんの顔が浮かび、私に向けることのなかった笑顔を想像しては、頭を振って消すのでした。
◇◇◇
私はもう結婚などできないのだ。
使い古しの女など、誰が拾うのでしょう。
繰り返される夜に、枕を濡らしては俊一郎さんを想っていました。
私が捨てられなければ、だなんて思うのは勝手でしょうか。
母様も父様も、私を慰めてくださいました。それはそれは愛されて育った一人娘ですから、両親は婚約者の家を出てきたことに悲しみました。その悲しみは私に向けられたもので、決して俊一郎さんへではありません。
あれから三ヶ月が経ちました。
季節は秋になり、涼しい気候はとても穏やかでした。
眩しい朝。背伸びをして起きると、小さな居間で両親が座っていたのです。その表情はどこか嬉しそうでした。
「おはようございます。どうなされたのですか」
「菫に大切なお話があるんだ。いいお話だから、緊張しなくていいよ」
父様の優しく低い声は、心にすぅっと落ちて安心しました。
「はい。なんでしょうか」
私は机を挟んで座布団に座り、両親と向き合いました。母様の表情は微笑みを崩さず、いつになく目尻の皺を深くしていました。
そして父様はこう続けます。
「縁談相手が決まったよ」
「えっ」
どくりと心臓が跳ねて、眩暈がしました。
こんな私に縁談相手が……?
だって私は――
「よかったね、菫。父さん嬉しいよ」
「こんな私でもよいのでしょうか。過去に婚約者がいたと伝えているのでしょうか」
「勿論伝えたよ。それをわかった上で了承してくださったんだ。とってもいい家柄のお方だ。なぜ独り身なのかわからないが、柳という資産家のご子息ということもあって、お金に困ることはないだろう」
柳……。隣町で有名な資産家だわ。なんでそんなお方のご子息が、使い古しのこんな私を……。
「父さん頑張ったのよ。菫のために。菫が一人にならないようにって」
「母様……」
「もし酷いお方だったら帰ってきなさい。私たちはいつでも待っているわよ。菫が傷つくことが、何よりも辛いのだから」
私は拳をぐぅと握り締めた。そして、深呼吸をする。
「父様、母様、ありがとうございます。もう結婚などできないとばかり思っておりましたから、縁談の機会をいただけて嬉しいです」
礼をして頭を上げると、両親の見慣れた微笑みに包み込まれた。
俊一郎さんのことは忘れて、また新たに踏み出さなければいけない。
もう、捨てられないように。愛されるように。
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