第3話

唯人は、幼い頃から可愛くて、街を歩けばキッズモデルのスカウトに声をかけられるのは日常茶飯事だった。

 唯人の母親が乗り気になって事務所に入ったりもしていたが、唯人自身はモデルに興味がないようだった。


『唯人がモデルしてるとこ、俺見てみたい』


 何気なく言った一言だったと思う。

 まさか俺の一言で唯人がやる気になるなんて思わなくて、でも、モデルとしていろんな表情を見せる唯人は輝いていた。

 何度か雑誌の表紙を飾ったこともある。もちろん、俺は今でも唯人が載っている雑誌をすべて大事にとっている。


 将来は芸能人になるのかと周囲が期待していた小学四年生の時、事件は起きた。


 その日は、酷い雨だった。

 傘をさしていても視界が悪くて、雨音は近づいてくる人の足音もかき消す。

 知らない誰かが突然目の前に現れて――唯人は誘拐された。

 数日間地元のニュースに取り上げられ、警察は唯人の捜索隊を何班も作り、探し続けた。

 唯人の両親も見たことがないほどに憔悴していて、俺自身も突然身近な場所で誘拐事件が起きたことでショックは大きかった。

 昨日まで毎日顔を見ていた唯人が、ある日突然いなくなったのだ。

 明日も一緒にいられると、何の根拠もなく信じていた馬鹿な自分に腹が立った。

 サッカーチームの練習なんか行かずに一緒に帰っていれば。

 唯人を可愛いと言う大人たちをもっと警戒していれば。

 唯人のモデル姿を見たいなんて言わなければ。

 唯人の無事が分からない、生きた心地がしないまま、一週間が経って、ついに犯人が捕まった。

 唯人は無事に帰ってきたけれど、誘拐されていた一週間で何があったのか、警察はおろか両親にも誰にも口を開くことはなかった。

 事件後、唯人はモデルをやめ、外に出なくなった。

 きれいな顔も、前髪を伸ばして隠して、笑顔を見せなくなった。

 特に大変なのは、雨の日だった。

 雨が、誘拐事件のトラウマを呼び起こしてしまうのだ。

 泣き叫び、暴れて、震えて、ひどく怯えていた。


『いやだ、怖い……やめて――』


 俺自身、雨の日には唯人をさらわれたあの時の絶望が押し寄せて、不安でたまらなかったから。


『俺が側にいるよ。絶対、唯人を一人にしない。これからは――俺が、唯人の傘になる。だから……』


 唯人に降りかかる恐怖の雨は、俺がすべて受け止めよう。


 震えて泣き叫ぶ唯人を初めて抱きしめた時、そう決めたのだ。

 それから、雨の日に唯人と一緒にいることが当たり前になった。

 中学生になり、少しずつ唯人は前を向き始め、以前のように笑うことも増えた。

 それでも、当たり障りのない人付き合いで、他人と深く関わることを避けていた。

 雨の日には体調不良で学校を休んでいたし、もちろん俺も唯人に会いに行った。

 さすがに学校を休むと親に叱られるし、唯人の両親に気を遣わせてしまうから、休むのはサッカー部の練習だけで。

 唯人のせいでサッカーが下手になんて思われたくなかったから、誰よりもうまくなろうと人一倍努力し、高校受験ではスポーツ推薦枠を勝ち取った。

 高校生になっても、そんな日々は変わらないと思っていた。

 しかし、少しずつ、何かが変わっていく。


 ――晴臣くんのことが好きなの。


 かろうじて名前を憶えていた女の子からの告白。

 クラスが違えば、話す機会なんて早々ないのに、どうして俺なんかを。


 ――おい晴臣、あんな可愛い子の告白なんで断ったんだよ!


 別に。好きでもなんでもなかったし。

 そもそも俺は別にサッカーができればそれでいい。


 ――もしかして、もう彼女いるのか? そういやお前、たまに練習休んでどっか行ってるよな。


 サッカーチームの仲間たちは、試合の戦略よりもどうすれば彼女ができるのかということを話し合う。

 女子と付き合うとか、性的な誘惑とか、考えたこともなかった。

 男子高校生の下ネタは、中学生よりもはるかに下世話で、性欲にまみれていた。

 そんな会話に興味がもてなくて、別に女子にもてたいとも思わなくて、俺はチームメンバーから珍獣を見るような目で見られていた。

 だから、もう彼女がいるのではという噂が広まっていても、否定することが面倒で、むしろその方が告白もされなくて楽だと放置していた。

 余計なものに気を取られてしまっては、唯人のために時間が使えないから。

 俺の中には、唯人とサッカーしかなかった。

 あまりにもそれが当たり前すぎて、この強い気持ちが何なのか、なんて気づかなかった。


 ……――今、この時までは。


 雨が怖いと唯人が泣いたあの日から、どうしても守りたいと思ったあの日から、ずっと。

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