最終話 そして世界は全て変わる
「駅まで送るか?」
「ううん。ちょっと寄っていきたいところがあるから」
お母さんに、お父さんの提案を電話で伝えたら、さほど興味もなさそうに同意してくれた。お母さんの興味が彼氏にしかなくて、よかった。
「じゃあ、また近いうち」
「お父さん」
「ん?」
「……ありがとう」
「ああ」
照れくさそうに笑った、お父さんに別れをつげる。わたしがこれから行く場所は、決まっていた。わたしの足は、今日も自然と、あの書庫に向かっていく。
あの場所で小日向くんに出会っていなかったら、不思議と、沙都や錬太郎くんとの出会いもなかったような気がする。なんだか、わたしの原点みたいな場所。
小日向くんは、わたしに人を好きになる気持ちを教えてくれた。沙都は、優しさと強さを教えてくれた。
そして、錬太郎くんは……わたしに、知らなかった感情をたくさん与えてくれた。
階段を、ゆっくりと上っていく。何も知らないで小日向くんに恋してた自分が目の前に見えるような、そんな錯覚を起こす。
もう一人の自分みたいな、小日向くん。もし、できることなら、もう一度会って、話をしたい ———————。
「皆川さん?」
「嘘……」
また、夢を見ているんじゃないかと思う。この場所で、本当に小日向くんに会えるなんて……。
「夢じゃないよ」
「……うん」
髪が少し短くなって、血色のよくなった小日向くんが立ち上がって、手にしていた本を棚に戻した。
「ここに来れば、いつか、きっと皆川さんに会えると思ってた」
「うん……」
わたしも、心のどこかで、そんなふうに思っていた。
「下に、沙都もいるんだ」
「じゃあ」
あのあと、小日向くんは、沙都とわかり合えたんだ。
「休みのたびに、二人でよくここに来てた。皆川さんに会えるように」
「あの……ね」
胸がつまって、何から話していいのか、わからない。
「皆川じゃないの」
「え?」
「星野 波流になったの」
なぜか、そんな関係のないことが口から出てくる。
「へえ。なんか、演歌歌手みたい」
「えっ?どうして?」
「わかんないけど、なんとなく。ごめん、適当」
そう、おかしそうに笑う小日向くんからは、以前と違った年相応の少年っぽさが感じられた。
「ねえ、小日向くん。あれから」
「ん?」
「あれから、小日向くん……どうなったの?」
わたしの中で、小日向くんはあの日のまま、完全に止まっちゃっているの。
「あれから……」
なつかしそうな目をして、その場に座った小日向くんの横に、わたしも少し離れて並んで座る。
「結局、一回家に戻ったんだ」
「うん……」
当時聞いた状況が再び頭の中を横切って、わたしの胸は鈍い痛みを感じた。
「そうしたら、その日、沙都のお母さんが家に怒鳴り込みに来てさ」
あの沙都に似て、ふわふわしたお母さんを思い出す。
「沙都が全部、洗いざらい話しちゃったんだ。そしたら、沙都のお母さんが、俺をそんな親のところに置いておけないって」
「そんなことが……」
想像すらしていなかった状況に、のみ込むまでに時間がかかる。
「俺も何が何だか、わからなかったんだけどね。戸惑ったし」
「そう……だよね」
「話しちゃうなんて、皆川さんには思いもつかない発想でしょ?」
小日向くんが、わたしを見て笑う。
「うん」
だけど、沙都のお母さんは、本当に素敵な人だと思うから。沙都だって、お母さんを信用していたからこそ、全てを打ち明けたんだよね。きっと、沙都もすごく考えたんだ。
「それで、高校を卒業するまで、沙都の家で世話になってたんだ」
「そっか……」
いろいろ、大変なことは、きっと多かったはず。でも、いとも簡単に解決策を見出した沙都は、すごい。
「それと」
「うん……何?」
「本当の母親じゃなかったんだ」
「どういうこと?」
すぐには、頭が回らなかった。
「本当の母親は、俺を産んですぐに亡くなってたんだって。あの母親とは、血のつながりがなかったんだ」
「…………」
それは、小日向くんにとって、かなり衝撃的な事実だったよね。
「それも沙都のお母さんが気づいて、その場で問いただしたんだけどね。本当の親子なら、父親は、子供じゃなくて母親の方を殴るはずだって」
「すごいね」
沙都のお母さんは、魔法使いみたいだ。
「写真、見る?」
返事をする前に差し出された古い写真には、小日向くんによく似た綺麗な女の人が写っていた。
「俺の本当の母親。一枚だけ、見つけたんだ」
穏やかな小日向くんの横顔が、涙でかすんで見える。うれしかったんだね、小日向くん。写真だけでも、本当の自分の素敵なお母さんに出会うことができて。
「美人で、優しそうな人だね」
「そうでしょ?」
そこで、少し恥ずかしそうに笑った小日向くんが、わたしはまぶしくてたまらない。
「それで、今はどうしてるの?」
「とにかく自立したかったから、卒業後は就職して、近くの社員寮に住んでる。来年からは、夜間とかも考えてるけど」
「頑張ってきたんだね」
小日向くんの目にも、表情にも、もう陰なんて感じられない。揺るぎない自信に満ちている気がした。
「あと、お父さんたちは……?」
「しばらくは、離れていたい。年とって、体でも弱ってきたら、それから考えるよ」
少し幼くなった印象とは裏腹に、小日向くんは大人の男の人だった。
「そうだ。沙都は短大に通ってるよ」
「よかった……」
小日向くんの近くで短大に通いたいと言っていた、沙都。沙都も夢を叶えたんだね。
「うん。全然、何も変わってないよ。元気にしてる」
二人の関係がよくわかる、幸せそうな表情。そして。
「錬太郎くん、は……?」
「ああ、錬太郎。錬太郎は、京都の大学に行ってるよ」
「京都? もしかして、K大?」
「そう。あいつ、勉強だけはできたからね」
「そんな言い方したら、怒られるよ」
何でもないことのように笑って見せたけれど、単純に会えないということの他に、ますます遠くの存在に感じてしまう。
……もっとも、錬太郎くんの方は、わたしのことを思い出すこともないかな。
「会いたい? 錬太郎に」
「あ……」
なんだか、探られているような雰囲気。
「や、だって、京都にいるんでしょ?わたしのことなんて、忘れてるかもしれないし」
あわてて、ごまかすように首を振った。
「どうだろうね。それより、そろそろ沙都も呼んでやらなきゃ。俺が独占してたら、恨まれる」
「うん。早く沙都に会いたい」
何から話そう? 今なら、沙都に伝えられること、伝えたいことがいくらでもある。
「じゃあ、皆川さんの近況は、沙都と聞こう。あ。今は、星野さんだっけ?」
「ううん。皆川でいいよ」
わたしには、なつかしくてたまらない、心地のよさを感じる響きだから。
「なら、皆川さんでいいや。そうだ。沙都が来る前に、ひとつだけ」
と、階段を下りかけた小日向くんが、以前みたいに、少しだけドキドキさせる表情で振り返った。
「二年前のあの日」
「……うん」
「俺は本当に、皆川さんを沙都の代わりにするつもりなんて、なかったよ」
小日向くんに、こんなに真剣な顔を向けられたのは初めてだった。
「そうじゃなくて、皆川さんは自分の分身みたいだったんだ」
あの日のわたしの気持ちも、全部を上手く言葉にすることはできなかったけれど、きっと小日向くんには伝わっていたはず。改めて、それを確信した。
「うん……陽と、波流だしね」
「そう。やっぱり、そこは運命っぽいよね」
「ね」
ありがとう。まぎれもなく、小日向くんは、わたしの永遠の憧れの人。
「皆川さんと出会えて、よかったと思ってるよ。今の俺があるのも、俺が人生でいちばん弱ってたとき、皆川さんが見捨ててくれたおかげだし」
「だから、それは……」
「ショックだったなー、あのときは。俺ね、皆川さんが思ってるよりもずっと、皆川さんのことが好きだったと思うよ」
「えっ?」
このタイミングで、そんな動揺させるようなことを言うの?
「大丈夫。冗談だから」
「わかってるけど……」
「変わってないな、皆川さんは。行こう」
「……うん」
いたずらっぽく笑った小日向くんに観念して、並んで階段を降りていく。
「あ……」
椅子にかけて、女性誌をめくる沙都の姿が目に入り、小さく声を漏らした。
「ちょっと待ってて」
そう小声で言ってから、わたしに軽く目配せして、小日向くんが後ろから沙都に近づいていく。
「陽」
まるっきり、昔と同じように、沙都がうれしそうに声を上げる。違うのは呼び方だけ。
「そろそろ、お弁当食べよ? わたし、お腹空いちゃっ……」
そこで、わたしに視線を向けた沙都が目を見開く。
「波流ちゃ……」
言葉なんて、必要ない。沙都の表情だけで、全てを感じることができた。
「本当に……また会えるなんて、思わなかった」
駆け寄ってきた沙都に、強く抱きしめられる。
「わたし、波流ちゃんのこと、何もわかってあげられてなくて。謝らなくちゃいけないことばっかりだけど……とにかく、うれしい」
「うん……」
胸がいっぱいで、沙都の言葉に首を振ったり、うなずいたりすることしかできない。
「とりあえず、外出よう」
そんなようすを満足げに見ていた小日向くんに声をかけられて、わたしたちは外の空気を吸いに図書館を出た。
「素敵なお父さんだね」
「変だよ。だいたい、気がついてくれるのが遅すぎるし。そんな年の離れた弟がいるのだって、普通じゃないというか」
沙都の言葉に恥ずかしくなって、反論する。
「たしかに、遅いよね。でも、よかったじゃん。夢が叶って」
小日向くんも笑っていた。
「ありがとう」
あの日、小日向くんに、はっきり思いを伝えたもんね。あの選択が間違っていなかったこと、時間はかかったけれど、やっと証明できた。
「じゃあ、俺は行くかな」
と、小日向くんが時計に目をやって、ベンチから立ち上がった。
「あとは、女同士で楽しんできなよ」
「いいの?」
目を輝かせる、沙都。
「皆川さん、まだ時間あるよね? 沙都と、一日遊んでやってよ」
「うん。夜まで大丈夫」
「本当?うれしい」
「わたしも」
昔みたいに腕を絡めてくれる沙都に、また距離が縮んでいくのを感じる。
「ちゃんと、皆川さんを引き止めておけよ?」
「わかってる」
そんな会話を交わしてから、小日向くんは遠ざかっていった。
…………。
今、ここに錬太郎くんが、いてくれたら ———————。
「どうしたの?行こ?」
「あ、うん……!」
気がつくと、なぜか錬太郎くんのことを考えてしまっている自分が理解できないまま、わたしは沙都と街に出た。
「陽から、全部聞いた?」
高校生に戻ったみたいに、何も考えずに騒ぎながら、服や雑貨を店で見たあと、沙都に誘われた公園で、一息ついていた。
「……だいたい。沙都も大変だったね」
「ううん。陽や波流ちゃんに比べたら、わたしなんか全然」
申し訳なさそうに、首を振る沙都。
「お母さんに助けを求めるなんて、子供っぽいのもいいとこだよね?」
「そんなことない」
心から、そう思う。
「なりふりなんか、かまう必要ないんだよ。救ってあげたいっていう気持ちだけで、十分なんだよ」
わたしに足りなかったもの。
「そうかな?」
「今の小日向くんを見れば、
「そっか。よかった」
やっと安心したように笑った沙都を見て、わたしもほっとする。怖がらないで、もっと早く勇気を出して、会いに来ていればよかった。
「錬太郎には、あきれられちゃったんだ。何もかも、親に全部は話す必要なかっただろうって。でも、わたしには頭が回らなくって」
「錬太郎くん、冷静だからね」
錬太郎くんは、揺るぎようのない二人の関係を間近で見て、どう思っていたんだろう? もしかして、それもあったから、遠くに進学したりしたのかな。なんだか、胸がチクチクする。
「ごめんね、波流ちゃん」
「ん?」
「波流ちゃんのことは大好きだけど……陽だけは、これからも手放せない」
「当たり前だよ、そんなこと」
思わず、わたしは笑ってしまう。
「今日も再確認したの。わたしの小日向くんへの気持ちは、恋ではなかった気がする」
「そう……?」
「共感すると同時に、憧れでもあって……沙都と小日向くんがずっと一緒にいたことがわかって、うれしかったよ。今は、勝手に友情に近いものも感じてるけど」
「陽も同じ気持ちだと思うよ」
沙都に、そんな言葉ももらえるなんて。
「ごめんね、沙都。ずっと勇気を出せないでいて」
「ううん。話してくれて、ありがとう」
と、今日の中でいちばんうれしそうに、沙都は笑ったんだけれど。
「だけどね、波流ちゃん。わたし、まだ波流ちゃんに謝らなくちゃいけないことがあるの」
「え……?」
いきなり、覚悟を決めたかのような沙都の表情。緊張が走る。
「わたしね、クラス替えの日に波流ちゃんに近づいたのは、本当は仲良くなりたかったからじゃないの」
「…………」
あまりに突然のその告白に、頭の中が真っ白になった。
「どういうこと……?」
「波流ちゃんの欠点を見つけたかったの」
「どうして? 何のために?」
さすがに、動揺を隠すことができない。
「わたし、小さい頃、ずっと錬太郎が好きだったの」
「あ……うん」
それは、想像していた。
「昔は、わたしが丈夫じゃなかったせいもあると思うんだけど、錬太郎は隣にいるわたしのことをいつも守ってくれたの」
「うん……」
それは、今も変わっていないんじゃないの?
「だけど、高校に入ってすぐ錬太郎に告白したら、わたしは家族みたいなものだから、そういう対象には見れないって言われて」
「そうだったの?」
意外すぎる事実に、ただ驚く。まさか、過去にそんなことがあったなんて。
「それで、やけになって、それほど好きでもない先輩とつき合ったりしたんだけど……陽に会って、わたしは初めて、錬太郎以外の男の子を好きになれたの」
いつだったか、屋上でお弁当を食べながら聞いたことのある、沙都の話を思い出した。だけど、さっきの、沙都がわたしに近づいた理由のことは?
「でもね、十年以上の間、ずっと好きだったんだよ?やっぱり、錬太郎が好きになった女の子、気になるでしょ?」
「錬太郎くんが、好きになった女の子?」
待って。話がつながらない。
「気がついたら、錬太郎はいつも一人の女の子のことを見てた」
「うん」
わけがわからないまま、先を促す。
「その子は、いつも一人で本ばっかり読んでる子で。正直、錬太郎が惹かれた理由がわからなかった」
「…………」
そんな。
「嫌な子だったら、錬太郎に教えちゃおうくらいに思ってた」
「嘘……」
錬太郎くんが、わたしを?
「ごめんなさい。本当の話なの。でも、わたしは波流ちゃんが好き。話した瞬間に、大好きになってたよ」
「わたしだって。わたしだって、沙都のこと、大好きだけど……」
でも、錬太郎くんがわたしを見ていただなんて、沙都の思い違いとしか考えられない。
「あ、電話」
沙都が着信音に気づいて、すかさず携帯を手に取った。
「待ってて、波流ちゃん。絶対、絶対、そこにいてね」
「沙都?」
「絶対だからね」
「ちょっと、沙……」
携帯を片手に、いきなり早足で駆けていく沙都。何がどうなっているのか、頭が整理できない。
一度、目を閉じて、気を落ち着かせたあと、バッグから本を取り出した。
あの頃、錬太郎くんが、わたしをずっと見ていた? あんなに意地悪だったのに?
本の表紙をながめて、それから、いつものように胸に抱く。たしかに、意地悪なときもあった。だけど、何度も助けられて、ずっと心の支えになっていて……ううん、それだけじゃない。
言葉でなんか、表現できない
沙都が言ったことが本当だとは思えない。でも、錬太郎くんと会えなくなる前に、きちんと伝えておけばよかった。
もっと、たくさん会って。もっと、いろいろな話をしておきたかった。錬太郎くんは今、あまりに遠いところに ———————。
「波流」
「え……?」
息を切らしている錬太郎くんが、現実に、わたしの目の前にいる。
「錬……」
「何なんだよ?一人で、勝手にいなくなりやがって」
びっくりするほど、変わっていない。
「どうして、いるの……?」
「どうしてって。陽に聞いて、新幹線で」
ずっと聞きたいと思っていた声が、聞けた。
「いや、そうじゃなくて」
夢じゃない。
「そうじゃなくて、何……?」
「波流に会いたかったんだ」
「わたしも……」
こんなにも。わたしは、こんなにも錬太郎くんに会いたかったんだ。
「わたしも錬太郎くんに会いたかったよ」
苦しいほどに、泣きたいほどに。
「どうしてか、わからないけど……」
理由もないのに、錬太郎くんの顔を見るだけで、涙が出てくるの。
「……本ばっかり読んでるくせに、バカな女だな」
「そんな言い方……」
次の瞬間、わたしの持っていた本に目をやって、少しだけ顔を赤らめた気がする錬太郎くんに、体を引き寄せられた。
「そういうのを、恋っていうんだよ」
そして世界は全て変わる
END
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