第16話 脱皮
仕事帰りに赤く染まった空を見上げるたび、わたしはあの日のことを断片的に思い出す。夕日が反射していた、小日向くんの髪。涙で光った、沙都の目。
そして、温かかった錬太郎くんの胸と、わたしを最後に呼んでくれた、錬太郎くんの声。
……ねえ、小日向くん。小日向くんは、今、幸せ?
誰にも行き先を伝えないで、携帯も解約し、全てのつながりを絶った。未練を残したくなかったから。少しでも前に進みたかったから。だけど……家のドアの鍵を開けて、お母さんの服の散乱した部屋の小さなソファに、わたしは倒れ込む。
そうして、疲れた体を少しだけ休めたあと、散らばった服をたたんで部屋の隅に重ねていく。それをすませると、簡単な一人分の夕食を用意して、小さなテーブルに並べていく。
「いただきます」
なんとなく、声に出して言ってから、以前よりはまとも作れるようになった料理を口に入れる。
静かな、家の中。お母さんとは、まともに顔も合わせてない日が続いている。帰ってこない日が多いし、取りにきた荷物をまとめると、すぐに出て行ってしまうから。
お母さんはプライドが高いと思っていたのに、意外だった。昔の友達が経営する飲み屋で働いている、お母さんは。店で知り合ったと言う客の男の人とつき合い出して、今、お母さんのお金はほとんど全部、その人に注ぎ込まれている。
わたしから見れば、いいようにされているようにしか思えないけれど、お母さんは幸せそう。
『わたしの出した料理を、おいしそうに食べてくれるの』
いつだったか、酔って帰ってきたときに、わたしが見たこともないくらいうれしそうに、そう言っていた。お母さんは、女としての自信がいちばんほしかったんだって、そのときにやっと理解できた気がする。
だけど、わたしはくじけそうになっていた。ううん。きっと、本当はもう、あきらめている。
日中は食品工場で働きながら、夜は必死で勉強して、高卒認定試験には合格した。でも、その先が見えない。
自力で大学費用を貯めるなんて、並大抵のことではなかった。長時間働かせてもらえる近所の工場で仕事をしたところで、生活しているだけで消費されていくお金。貯金できる額なんて、毎月わずかなもの。
やっぱり、夢物語だったのかもしれない。だいいち、続けていた勉強だって、最近は疲れを理由に参考書を広げない日も増えてきた。
「ごちそうさまでした」
手を合わせて、今度は食器を片づける。シャワーを浴びたあとは、今日も参考書には目もくれないで、ベッドに寝転がる。
そして、手をのばす。錬太郎くんにもらった、いつかの本に。
「背表紙、取れそう……」
もともと傷だらけだった本は、さらに痛んできた。どうせ、全文頭に入るくらい読んでるのに、どうしてか、寝る前に毎晩手に取りたくなるの。
錬太郎くんは、どうしているかな? わたしのこんな中途半端な生活を知ったら、きっと軽蔑するね。
あの日、わたしは選択を間違えたのかもしれない。あんなに弱っていた小日向くんを一人残してきたくせに、わたしは何ひとつ目標を達成できていない。
小日向くんが、また本当に好きな人を見つけるまでの間だけでも、わたしがそばにいればよかったかのかもしれない……今でも、そんなことばかり考えているわたしのこと、錬太郎くんは、何て言うかな。
「…………」
話を読み終えて、本を閉じると、いつでも決まって、わたしの目からは涙がこぼれてくる。この気持ちが何なのか、自分でもわからない。
ただ、ひたすら、錬太郎くんの声が聞きたくて。錬太郎くんと話がしたくて。錬太郎くんの顔が見たくて。そんなふうに、錬太郎くんのことばかりが頭に浮かぶの。
沙都は、錬太郎くんに対して、単なる幼なじみ以上の感情もあったはず。だから、もしかしたら、今、沙都と一緒にいるのは小日向くんじゃなくて、錬太郎くんかもしれない。
そんなことを想像すると、なぜか胸が苦しくてたまらなくなる。とっくに違う世界の人になってしまったことを、思い知っているのに ——————。
そうして、わたしは、今日も本を抱きしめて、非現実の世界を夢見ながら、静かに眠るの。
そんな日常が変わるきっかけとなったのは、ある日突然かかってきた、意外な人からの一本の電話だった。
「ひさしぶりだな、波流」
「そう、だね」
二年以上会っていなかったお父さんだけれど、やっぱり、わたしの顔はお父さん似だと、会うたびに思う。
「何か飲むか?」
「あ……じゃあ、アイス・ティー」
いきなり、家に電話をしてきたと思ったら、わたしの都合も聞かず、昔の家の近所の店に呼びつけてきた、お父さん。
「こっちには、たまに来てるのか?」
「ううん。初めて」
きっと、こんな強引な誘いでもなかったら、一生来ることはなかった。交通費だって、ばかにならないし。
「友達は? いるんだろ?」
「うん……」
お父さんの質問に、うつむいて、あいまいに笑う。
「そうか」
「…………」
変なの。お父さんがずっと嫌でたまらなかったのに、今の会話の空気に居心地のよさを感じた。
「あいつは元気か?」
お母さんをあいつなんて言うところが、お父さんの子供っぽさを象徴しているみたいで、おかしい。
「うん。年下の彼氏がいるよ」
「何歳下だ?」
「わからない。多分、五歳くらい」
「じゃあ、俺ほどじゃあないな」
「そうだね」
お父さんのあまりの悪びれなさに、苦笑いするしかないけれど。
「赤ちゃん、生まれたんだよね?」
改めて、親子の会話だと思うと違和感がある。
「ああ。男の子で、カイっていうんだ。見るか?」
うれしそうに携帯の写真を見せてくるお父さんは、わたしの知っているお父さんとは別人みたい。違う家庭を持っている人なんだから、当然のこと。でも。
「カイくん……」
わたしの弟である、カイと名づけられた男の子も、わたしにどこか似ている。
「おまえに似てるだろ?」
「……うん」
自分で言うのはためらわれたけれど、不思議な気持ちで、わたしはうなずいた。
「本当に可愛いんだよ。よく笑って、愛嬌もあるし」
「……よかったね」
わたしに何を言いにきたのか、何がしたいのか、よくわからない。少し複雑な思いで、相づちだけ打つと。
「波流が生まれたときは、まだ若くて」
いきなり、真面目な表情で語りだす、お父さん。
「遊びたい盛りで、おまえには目が行かなかった」
「……うん。知ってる」
「そうか。まあ、そうだよな」
お父さんが、バツが悪そうに
「この前、不用品を処分しようと思ったら、おまえの部屋で受験案内の本を見つけたんだ」
「そう……」
あの部屋に残してきた、様々な気持ちがよみがえる。
「大学に行きたかったのか?波流」
「……行きたかったよ」
くやしさを思い出して、目から涙がこぼれてきそうになるのをこらえる。
「気づいてやれなくて、悪かった」
「そんなこと、ここで謝られても」
大学のことなんて、もう忘れようとしていたのに。どうして、今さら……と、お父さんに思いをぶつけようとしたとき。
「来年、受験しろ。一年くらい遅れても、どうってことないだろ?」
「え……?」
お父さんに呼ばれた理由が、やっとわかった。
「もっと早く気づいてやればよかった。おまえと、ちゃんと話すべきだった」
「でも」
どうなってるの? 何かの冗談じゃないよね?
「すぐ、東京の全寮制の予備校を手配してやる。大学を卒業するまで、金銭面の心配はするな。それぐらい、全部出してやる。親なんだから」
「本当に……?」
まるで、夢を見ている見たい。大学進学なんて、絶対に無理さと思っていたのに……。
「カイを見てたら、波流の小さい頃を思い出したんだ」
急に、父親の顔で、お父さんが口を開いた。
「おまえは、人形相手に先生ごっこをするのが好きだったよな。本もよく読んでたし、頭のいい子だったから、教師に向いてると思ってたんだ」
「…………」
錬太郎くん。今の、聞いた?
「お父さん」
「何だ?」
もしかして。
「カイって、どんな字を書くの?」
「ああ、海だよ。いい名前だろ?」
得意げに、お父さんが答える。
「昔から、海が好きだったの?」
「そうだよ。若い頃はしょっちゅう、サーフィンに行ってた。なかなか、いいセンスだろ?波流って名前も」
「うん……まあね」
恥ずかしいような、バカバカしいような。それでも、やっぱり、うれしくて。この気持ちを、今すぐ錬太郎くんに伝えられたらいいのに ——————。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます