第15話 離れていても
先生から受け取った、転校手続きに必要な書類を封筒から出して、ぼんやりとながめる。
「何してるの?波流」
わたしの歩調が緩んだことが不満だったのか、イライラしたようすで、お母さんが振り返った。
「ううん、べつに」
あわてて、中身を元に戻して、わたしもお母さんと同じ速度で駅に向かう。学校自体に強い思い入れがあったわけじゃないけれど、それでも、この道を通ることは二度とないんだと思うと、何とも言えない気持ちになる。
だけど、ずっと後ろを見ていても意味がない。だって、わたしが受け入れなくちゃいけない現実なんだから。
「ねえ、お母さん。わたし、向こうに着いたら、なるべく早く、新しい学校に入りたい」
最初から、やり直すの。受験勉強は今までどおりに頑張って、できるなら、友達も作りたい。そして、自信を持った自分に生まれ変わることができたなら、そのときは……。
「何言ってるの?」
「え……?」
予想もしなかった、お母さんの反応。
「わたしは、友達の店を手伝うことになってるの。そんな余裕ないわよ」
この人が、わたしの母親なの?
「先生もおっしゃてたじゃない。高卒認定試験ってものがあるんでしょ?それで、十分よ」
「でも、大学だって……」
ずっと、文学の勉強をするのが夢だったのに。教員試験のことも視野に入れ始めて、そのために頑張ってきていた。
「今の状況で、大学なんか行けると思ってるの?」
お母さんに感情的に声を荒げられて、これ以上言うのはためらわれたんだけれど。
「養育費は?お父さんに、もらってるんでしょ?」
いくら何でも、わたしたちのことを
「断ったわ、そんなもの」
「断った?」
お母さんの言葉に、自分の耳を疑う。
「意地でも、もらえるわけないじゃない。わたしたちで何とかするから、必要ないって言ってやったわ」
そんな、お母さんの勝手な理由のせいで、わたしの将来は犠牲になるの?
「どうせ、あなたには向いてないわよ。学校なんて」
「どうして……?」
怒りなのか、くやしさなのか、悲しさなのか、自分でも説明できない感情に声が震える。
「机に書かれた落書きを見れば、わかるでしょ? あなたは人間として、どこかに欠落してるところがあるのよ」
「信じ……られない」
もう、限界。わたしは、お母さんと一緒にいたくない。そうじゃないと、自分が壊れる。
「どこに行くの?波流!」
お母さんに背を向けて、わたしは駅と反対方向に走り出した。
わかっているの。わたしは未成年で、力もなくて、お金だって全く持っていない。このまま、お母さんのもとに帰らないでいることなんて、できるわけがない。でも、それでも、今だけは……。
結局、どこへも行き場がないから、わたしはまた書庫への狭い階段を上る。そう。小日向くんと出会った、この場所も最後。
ずっと学校を休んでいる小日向くんは、どうしているんだろう? 沙都と、早くわかり合えたらいいのに。
「…………」
ふと、ある考えが頭を
さすがに、まさか二度目はないよね? そんな、期待でもしているかのような自分に苦笑いしながら、いつもの一角を目指すと。
「来ると思ってた」
そこには、やっぱり、小日向くんがいた。だけど。
「その顔……」
痛々しいほどのいくつものアザと、腫れた右目。
「たった今、沙都に全部話したよ。電話で」
わたしの質問には答えないで、微かな笑みを浮かべて、小日向くんが話し出す。
「それで……?」
「一緒についてきてほしいって言ったんだけど、できないって」
「ついてきてほしいって、どこへ?」
「遠く。誰も、知り合いがいないところ」
この前、冗談めかして言っていたこと、本気だったんだ。
「すぐには無理だよ。ちゃんと時間をかけて、ゆっくり話さなくちゃ。それに、電話じゃなくて、直接……」
「もう、家には戻れない」
「その傷……は?」
もしかして、誰かにに殴られたの?
「見られたんだ。夜、母親が俺の部屋に来てたところ。父親に」
「そ……」
「布団をはがされて、俺だけ殴られて。母親は、俺に無理矢理やられたって、泣き出したよ」
「そんな……」
息ができない。苦しくて。ただ、苦しくて。
「助けてよ、皆川さん」
そんな弱気なセリフを吐きながらも、精いっぱいの虚勢を張っているように見える小日向くんが、わたしの目になおさら痛々しく映る。
「わたしには、何もできないよ。力になってあげたいけど」
小日向くんを救ってあげられればいいのに、わたしはこうして、自分の無力さを実感することしかできない。
「ただ、いてくれればいいよ」
「本当に……?」
そうすれば、わたしは小日向くんを救ってあげられるの?
「お茶でも飲む?」
「ううん。大丈夫」
座って、無機質な部屋を見回しながら、首を振る。
「あの、どうしたの?」
こっちを見て、クスクス笑っている小日向くんに気がついた。
「いや。今日は、あんまり挙動不審でもないから」
「だって……!」
この前は、まさかあんなホテルに連れて行かれるなんて、思ってもみなかったから。
「えっと……ウィークリー・マンションっていうの?ここ」
「うん。とりあえず、貯めてたバイト代で、二週間借りてる。早く仕事決めないと」
向かいに座って、わたしの前にもお茶をいれたカップを置いてくれた、小日向くん。簡単な生活用品一式は揃っているようだけれど、すごく寂しさを感じる部屋。
……それにしても、また、小日向くんと密室で二人きりなんだ。
「小日向くんこそ」
「ん?」
「全然違うよ。この前と」
いろいろなことを考えて、急に意識してしまう。
「そう?」
「そうだよ。この前は、なんだか怖かった」
「今は?」
「今は……」
小日向くんの顔が、目の前にあった。
「今は、落ち着いてるみた……」
小日向くんの質問に答え終わらないうち、わたしの唇は、ゆっくりと塞がれた。決して、この前みたいに投げやりではなく、丁寧に、優しく触れるように。
「皆川さんが今、ここにいてくれるからだよ」
そっと唇を離して、小日向くんは静かに微笑んでくれた。
「わたしが……?」
「そう。皆川さんが」
行き慣れた書庫の薄暗い蛍光灯の中より、もちろん、いつかのホテルの不自然なライトの下より、窓から差し込む本物の夕日が、小日向くんの瞳をいちばん美しく見せる。
「小日向くん……」
ずっと、何も望んでなんかいなかった。遠くから見ているだけで幸せだった小日向くんに、髪を撫でられながら、愛おしむように何度もキスを繰り返される。
やがて、わたしの体は、頭を支えられながら、ゆっくりと小日向くんに押し倒された。
「綺麗……」
「ん?」
大好きな小日向くんの茶色がかった髪に、赤い夕陽が反射して、痛いくらに輝いている。
「……何でもない」
「怖い?」
「ううん」
心から、小日向くんに必要とされている。これ以上にうれしいことなんて、わたしにはないから。
「全然、怖くない」
小日向くんの長い指が、わたしの上半身を滑らかになぞる。思いきって、小日向くんの髪に触れてみたら、見た目以上の柔らかさに不思議な感覚を覚える。そのまま、目を閉じて、わたしの全てを小日向くんに委ねようとした。
そのとき、だったの。
「波流」
初めて、小日向くんがわたしの名前を呼んでくれた。小日向くんと同じ、ハルという、わたしの名前を。
…………。
それは、夢ですら想像できなかったような、あまりに甘く、そして、切なさを伴った響き。
お母さんのことも、お父さんのことも、沙都のことも、これからのことも、全てがどうでもよくなってしまうくらい、幸せなはず。それなのに、どうして、わたしは……。
「波流? なんで、泣いてるの?」
「わからない」
自分でも、わからないの。でも、たったひとつ、わかるのは、わたしの頭の中は今、錬太郎くんでいっぱいだっていうことだけ。
錬太郎くんの、「波流」って、わたしを呼んでくれる声。
「皆川さん?」
「ごめんなさ……」
錬太郎くんに、「波流」って呼んでもらえるのが好きだった。錬太郎くんがわたしの名前を呼ぶとき、錬太郎くんはまぎれもなく、わたしのことだけを見ていてくれたから。わたしの存在を肯定してもらえた気がしたから。
「嫌だったら、何もしないよ」
「……小日向くん」
「まだ、信用できない?」
体を起こして、小日向くんがわたしの目を見る。
「やっぱり、違う。だって、小日向くんは何も悪くないんだから」
「え?」
小日向くんの目が、驚いたように見開かれた。
「小日向くんが逃げる必要なんて、全然ないよ」
「……俺に、立ち向かえって?」
「わからない。わからないけど……」
お互いの両親から一緒に逃れれば、二人で苦しみを分かち合うことはできるかもしれない。だけど。
「わたし、大学に行って、もっと勉強したいの」
「どうやって?」
ここに来るまでに、家族のひととおりの事情は話した。わたしの非現実的な思いに、小日向くんは皮肉っぽく笑う。
「お母さんと二人で暮らしながら、何年かかっても自分で学費を貯める」
「……それこそ、夢物語だよ」
どんどん陰っていく小日向くんの表情に、わたしの胸の痛みも増していく。だけど。
「やっぱり、わたしは沙都の代わりにはなれない」
「そんなふうに思ってないよ」
「ううん」
小日向くんも、本当の自分の気持ちは、わかっているはず。
「小日向くんには、自分に嘘をつかないで生きてほしい。心から好きな人と、笑っていてほしい。わたしのためにも」
わたしにとって、小日向くんは、ずっと太陽みたいな男の子だったんだよ。それは、今でも変わっていない。
「だから、わたしは力になれない」
いつか、小日向くんが言ったように、小日向くんがわたしを本当に好きでいてくれたら。そうしたら、わたしは全てを投げ打っても、きっと後悔なんかしなかった。それは、言いきれる。
「ごめんなさい」
わたしの選択は、小日向くんを見捨てることになるんだ。一度、ここまでついてきたのに。
「…………」
小日向くんは無言で、ぼんやりと窓の下から、赤い空に目をやっていた。
「幸せになって、小日向くん……」
自分が子供であることの、くやしくて、やりきれない気持ち。そのもどかしさをどこにぶつけたらいいの……?
「……やっぱり」
不意に、小日向くんが笑った。
「やっぱり、人がいいよ。皆川さん」
「……そんなことないよ」
涙でぼやけた視界の中に焼きつけた、一点の曇りもない、その小日向くんの笑顔を最後に。わたしは、生まれたときから住んでいた、この地を去ることになった。
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