第14話 光
逃げているみたいで嫌だったけれど、あれから、わたしは学校を休んでいた。
「だいたい、終わったみたいね」
わたしの部屋をのぞきにきた、お母さん。
「……うん」
いつものように表情は険しいものの、だいぶ吹っ切れているようだった。
「学校、朝から行くの?」
「うん。最後だし」
わたしが壁にかけてあった制服を手に取るのを、お母さんが不審そうな顔で見ていた。
「どうせ、やめるのに」
「荷物は、全部まとめ終わったから」
「べつに、あなたの好きなようにすればいいけど」
もう、こんな会話も、いちいち傷つかない。
「行ってきます」
本当に、これで最後なんだと思いながら、玄関のドアを開ける。
「あとで、わたしもあいさつにうかがうわ」
「お願いします」
ひさしぶりに嗅いだ気がする朝の空気に少し救われた気分になって、ゆっくりと歩き出す。お父さんなんて、わたしとお母さんが家を出ることが決まってからも、顔すら見ていない。
全ては、わたしが学校にいる間に話し合われたみたいだけれど、お父さんとお母さんは、きっぱり離婚。わたしには、遅かったようにさえ思える。
そして、わたしとお母さんは、お母さんの岐阜の実家の近くに小さなマンションを借りて、二人で住むことになった。あのずっと住んでいた家は、時期を見て建て直してから、お父さんと新しい奥さんが住むらしい。もちろん、生まれてくる赤ちゃんも。
わたしには、わからないことだらけ。お父さんが帰ってきた、いつかの夜のことだって、体を重ねるのは相手を好きだからじゃないの?
あの夜、お母さんは、新しい人の代わりだったの? やっぱり、わたしは意味のない子供だったの?
小日向くんのお母さんだって、ひどいよ。ひどすぎるよ。子供は親の所有物なんかじゃないのに。ちゃんと、感情をもって、生まれてくるのに。
それなのに、何もできないの。だって、わたしたちは無力だから。
「沙都」
意を決して、わたしは教室の中で沙都に声をかけた。
「少しでいいから、話したいの」
「陽くんなら、今日も休んでるよ」
そう言って、うつろな目で笑う沙都に、また自分のしたことの重さを思い知らされる。
「わたし、波流ちゃんが大好きだったんだよ」
わたしだって、沙都のこと、大好きだよ。初めて、大切だと思えた。わたしにとって、唯一の友達だったんだよ。
「だから、悲しいの。波流ちゃんに裏切り続けられてたなんて」
「違うの」
誤解されたままだったことに、ようやく気づいた。
「あれは……」
「ごめんね、波流ちゃん。時間が必要なの。今はまだ、波流ちゃんの顔は見れない」
「沙都……」
わたしが言葉をつまらせている間に、沙都は少し無理したようすで、笑顔を見せた。
「波流ちゃんと前みたいに話せるようになるには、まだ時間がかかるの。だけど、いつか必ず、心から笑えるようになるから」
「わたし……」
最後まで優しい沙都。嘘がなくて、まっすぐで。
「わたしね、沙都」
でも、わたしには時間がない。
「ずっと、小日向くんに憧れてたの」
聞いてもらえないかもしれない。だけど、後悔したくない。
「噂になってたのは、本当のこと。ただ、その場の空気に流された、意味のないものだけど」
「…………」
沙都の顔が、悲しそうに
「だけどね、沙都」
沙都が聞いてくれているのを確かめながら、わたしは続ける。どうしたら、沙都に伝わる?
「あの首筋の跡の相手は、わたしじゃない。小日向くんは、苦しんでるんだよ。小日向くんを救ってあげられるのは、沙都しか……」
「正直に話してくれて、うれしかった」
そこで、沙都に遮られた。
「でも、今は……ごめん」
「……ううん。わたしの方が、ごめんなさい」
沙都の目に涙が光っていたから、わたしは我に返って、沙都の視界から消えようとした。だけど、どうしても。ひとつだけ、どうしても、沙都に伝えておきたい。
「沙都」
返事はなかったけれど、わたしは声を振りしぼる。
「こんなわたしと仲良くしてくれて、ありがとう」
言葉にすると、なんて薄っぺらいんだろう? でも。
「沙都と過ごした時間、わたしは忘れないから」
楽しかったの。ひがんだりしたことも、ときにはあったけれど。一緒に買い物をしたり、お弁当を食べたり。沙都のおかげで、毎日がドキドキの連続だった。
「ありがとう……沙都」
うつむいていた沙都の表情は、見えなかった。わたしの自己満足かもしれない。でも、ちゃんと伝えられたから、思い残すことは、もうないよね。
お昼も食べて、午後の授業も受けた。だんだん、終わりが近づいてくる。
お弁当を持って、屋上に向かうとき、錬太郎くんの姿を見かけたけれど、錬太郎くんへの言葉は見つからず、声をかけることはできなかった。
……本当は、錬太郎くんにもらった本のお礼を、もう一度言いたかった。でも、きっと迷惑そうな顔をされるだけ。
この
「冷たい」
突然、すぐ隣で、かん高い声がした。見ると、同じクラスの女の子がわたしのことをじっとにらみながら、そこに立っている。
「冷たいんだけど」
「…………?」
一瞬、意味がわからなかったんだけれど、その子の視線で、わたしの使っていた水が跳ねてしまっていたことに気づく。
「ごめんね」
「ごめんって、それだけ? 汚いじゃん」
「ごめんなさい」
怒りが収まらないようだから、謝り直した。
「何?その、態度」
違う。単に、わたしが気にくわないだけなんだ。
「ちゃんと謝りなよ。自分が悪いんだからさ」
「二回、謝ったよね? そこまで悪いことしたなんて、思えない」
その敵意をむき出しにした子に、わたしはめずらしく反論した。だって、理不尽だから。わたしが責められてもしかたがないのは沙都だけなのに、まるで何かのイベントみたいに、わたしを標的にする人たち。
受け入れざるをえない理不尽なことは、いくらでもある。だから、必要のない、こんな幼稚ないじめみたいなことまで受け入れたくなんかない。
「ふうん。じゃあ、こういうことをされても、文句言わないんだ?」
「え……?」
次の瞬間、わたしの頭には、その子の持っていた濡れた雑巾がのせられていた。頭から、したたり落ちる水滴。興味本位で集まってきた、たくさんの人たち。
「……もう、気はすんだよね?」
これ以上、やり合う気もない。誰にも言わないで、ひっそりといなくなるつもりだったのに、最後の最後になって、こんな……。
「ムカつく」
「…………!」
話はすんだと思ったのに、返そうとした雑巾を、今度は顔に押しつけられた。
「何するの?」
あまりに子供じみた嫌がらせに驚いて、反射的に女の子を突き飛ばしてしまう。
「信じらんない。何? この女」
後ろによろけ、逆上した女の子が叫んだ。そして、興奮したまま、近くにいた男の子に頼んでいる。
「ねえ。ちょっと押さえててよ、こいつ」
「
そう言いながらも面白そうに、わたしを押さえつける男の子。もう、どうでもいい。くだらなすぎて、抵抗する気すら起きない。
「つまんねえ。こいつ、泣かないじゃん」
こんなことで、泣いたりするわけない。全然、泣くようなことじゃないから。だけど。
「沙都……」
人だかりの中で動けないでいる、沙都の姿が見えた。目に涙をためて、声にはなっていないけれど。
『ヤメテ』
必死で、そう訴えてくれているのが、わたしにはたしかに聞こえた。だから、もう、十分。
「ほら。これでも、泣かないでいれる?」
大量に水を含んだ雑巾が頭上で絞られようとしているのを見て、わたしは投げやりな気持ちで、目を閉じた。そのとき、だった。
「波流……!」
わたしを呼んでくれる力強い声がして、錬太郎くんの温かい胸に抱きかかえられたのは。
「きゃ……」
しりもちをついて、倒れた女の子を横目に、男の子は気まずそうに立ちつくしている。
「行けよ」
「違うの、芹沢くん。わたし、あの……」
さっきまでとまるで様子の変わった女の子が、錬太郎くんに狼狽の表情を見せる。
「消えろよ、クズ女」
「…………!」
体を震わせながら去っていく女の子は、もしかしたら、錬太郎くんのことが好きだったのかもしれない……なんとなく、そんなことを考えた。
「えっと、俺も行くわ」
男の子の方もバツが悪そうに場を後にすると、それと同時にギャラリーも散っていく。沙都の姿も、もう見えなかった。
「あの……もう、大丈夫だから」
「……ああ」
ずっと、わたしをしっかりと支えてくれていた錬太郎くんの腕を、ゆっくりとすり抜ける。
「よけいなことしてくれなくて、よかったのに」
このまま、せいせいした気持ちでいなくなればいいと思っていたのに、たくさんの未練が残ってしまう。
「何だよ? その言い方」
「…………」
だって、きっと初めてだった。“わたし”を抱きかかえてもらえたのなんて。
誰かの代わりとか、誰でもよかったわけじゃなく。たとえ、好きだなんていう感情はなくても、さっきの錬太郎くんはわたしを守るためだけに、わたしを胸に抱いてくれた。
あの本だって、錬太郎くんは、わたしのことを思い出して、わたしのためだけに取っておいてくれた。そういうの全部、忘れようとしていたのに……。
「悪かったよ。陽に誤解されるようなことして」
わたしの憎まれ口に、どうでもいいようにそう返して、錬太郎くんも自分の教室に戻ろうとしていたんだけれど。
「波流?」
今頃になって、涙が止まらなくなる。足もすくんで、動けない。本当は怖くてたまらなくて、一人で心細くて……と、そのとき。
「ちょっと、錬太郎くん?」
「教室まで」
いとも軽々と、わたしの体を抱き上げた錬太郎くん。
「みんな、見てるよ」
「いいよ、べつに。しょうがないだろ?」
錬太郎くんの口調は面倒そうだけれど、優しさしか感じられなかった。
「……童話の中の、お姫様と王子様みたい」
「相手がおまえなんて、願い下げだから」
「わたしだって」
笑いながら、そんな言葉も交わしていたけれど。でもね、錬太郎くん。今までで、こんな幸せな感覚を知ったのは初めてだよ。
「ごめんね。錬太郎くんの制服が濡れちゃう」
これは、さっきまでの涙とは違う、うれし涙。
「雑巾くさい」
「そうだね」
涙目で、クスクス笑う。もし、時間を永遠に止められるのなら、わたしは今を選ぶかもしれない。錬太郎くんはきっと、迷惑だって、顔をしかめるね。
でも、そんな時間が続くわけない。
「お母さん……」
「え?」
わたしが小さく上げた声に気づいて、とっさに錬太郎くんはわたしを下ろした。
「何? 面談?」
「……うん。そんなようなもの」
学校をやめることは、先生には一週間前に伝えてあるけれど、まだクラスメイトには知らされていない。
「もう、歩けるだろ?」
「うん」
どうしよう? 錬太郎くんに、一言だけ別れを告げておく? もう会えなくなっちゃうんだよ。そう、二度と……。
「あのね、錬太郎くん」
と、そこで。
「そこにいたの?波流」
後ろから、お母さんの声が響いた。
「ごめんなさい、今……」
荷物を取りに、急いで教室に戻ろうとしたところで。
「見たわよ、机」
何気ない調子で、お母さんが口を開いた。そうだった。いたずら書きも、放ったままだったのを思い出す。
「あなたは、ここでもいらない人間だったのね」
「あ……」
思わず、わたしは錬太郎くんの顔を見た。錬太郎くんは、あっけにとられた表情で、お母さんを凝視している。
「行くわよ、波流」
「……うん」
ううん。全然、驚くようなことじゃないんだよ、錬太郎くん。ずっと小さい頃から、わたしが肌で感じ続けてきたことなんだから。
「待てよ」
お母さんと歩き出したところで、錬太郎くんに呼び止められた。
「あんた、それでも波流の……」
「悪いけど、先生との約束の時間があるの」
何かを言いかけた錬太郎くんを、お母さんがぴしゃりと遮った。それでも、最後に。
「波流」
もう一度、錬太郎くんがわたしの名前を呼んでくれたこと、わたしは忘れないからね。錬太郎くんが最後に与えてくれた、一瞬の光のような時間も ———————。
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