第13話 窒息



「お母さん。朝食……一応、テーブルの上に用意しておいたからね」


 この三日間、お母さんは料理を作っていない。


「行ってきます」


 寝室のドア越しに声をかけてから、わたしは家を出て、学校へ向かう。昨日、わたしの作った野菜炒めが油っぽすぎて、胸焼けがする。もっとも、お母さんは口にも入れなかった。


今日の目玉焼きも、お母さんが見たら、どう思うんだろう? お母さんのことをずっと軽蔑していたくせに、こんな状態になっても、目玉焼きすら自分では満足に作れない。


 最初の一日目は、お母さんが買ってきたコンビニ弁当だった。でも、お母さんの手料理がすぐに恋しくなるなんて、わたしはどこまで子供なんだろう。





 昨日はひとつだった机のいたずら書きが、今日は四つに増えている。消したって、どうせ同じ。また、新しい文句が追加されるだけ。


 せめてもの救いは、沙都と席が離れたこと。窓際のいちばん後ろのわたしと、廊下側に座っている沙都。こんな下劣な落書きを、沙都に見られないですむ。


 ……お弁当、今日は、どこで食べよう? クラスの女の子の輪の中の沙都をぼんやりと見ながら、考える。お弁当箱に詰めたのは、昨日の野菜炒め。食べたくない。また、胸のあたりがもやもやする。


 小日向くんはというと、沙都と錬太郎くんが近くにいることがないだけで、変わったようすはない。朝、普通に友達と話してる姿を遠目に見て、とりあえずは安心した。


 でも、わたしは何もしてあげることができない。わたしの方はたとえ学校で何があろうと、小日向くんの抱えている苦しみに比べたら、取るに足らないくらいのことなのに……と、そのとき。


「あ……」


 錬太郎くんが、向こうから歩いてくる。


「錬太郎くん」


 何を言ったらいいのかももわからないのに、気がついたら、声をかけていた。続きを促すように、錬太郎くんが無言で立ち止まる。


「あの……」


 言い訳なんて、するつもりはない。ただ、錬太郎くんに……。


「あのね」


 だけど、イライラした表情で視線を外す錬太郎くんに、わたしは体が動かなくなる。


「何も用がないなら、行くから」


 きっと、わたしのクラスでの状況はわかっているんだろうから、必要以上にきつい言い方ではなかったけれど。


「……ごめんなさい」


 今さら、どうして、こんなにムシのいい期待をしていたんだろう? 錬太郎くんなら、助けてくれるんじゃないかって。全部、どうにかしてもらえるんじゃないかなんて。


 一人で歩き出して、お弁当箱の包みを抱きしめながら、涙をこらえる。クラスの子全員に無視されるより、どんなにひどいことを机に書かれるより、錬太郎くんに軽蔑されることが、こんなにつらいとは思わなかった。


 沙都とだって、ちゃんと話したい。でも、何も言えない。だって、わたしから、小日向くんの秘密を口にすることなんてできないから。


 身動きがとれない。わたしは、どうしたらいいの……?


「あ、悪い」


「…………!」


 走ってきた男の子にぶつかった拍子に、落ちて中身がバラバラに散らばった、わたしのお弁当。いつかのチョコレート・ケーキみたい。


「いい気味」


 そんなフレーズが、何か所からも聞こえてきた。


 ……つらくない。これくらいのこと、全然つらくない。頭の中で何度もそう繰り返しながら、その場にしゃがんで、落ちた中身を拾い集めていたら。


「優しいじゃん、小日向」


 不意に耳に入ってきた、知らない男の子の声に驚いて、顔を上げると。


「大丈夫?」


「……うん。平気」


 絶対に近づいてくるわけがないと思ってた小日向くんが、わたしの目の前に、しゃがみ込んでいた。


「何? これ。野菜炒め?」


「そう」


 焦げて、しなびたキャベツをつまみ上げながら、小日向くんが怪訝そうな顔をする。


「お母さん、料理は上手なんじゃなかったっけ?」


「わたしが作ったの」


「へえ」


 少し笑って、キャベツを拾い上げてくれる、小日向くん。


「どうして、悪意が全て皆川さんの方だけに行くんだろう?」


「よかったよ、それで」


 そんなことで、小日向くんを救った気になんかなっていないけれど。


「強いね、皆川さんは」


「そんなことない。沙都の方が、よっぽど強いよ」


 優しさも、立ち向かう勇気も。


「俺が皆川さんを好きだったら、よかったのにね」


 どこか遠くを見ながら、唐突に小日向くんが口を開いた。


「え……?」


「それなら、何も問題なかったのに。二人で親の目の届かないところに行って、気楽に生活できる環境を作ってさ。いいと思わない?」


「……どうだろうね」


 後始末を終えて、立ち上がる。


“好きだったら、よかった”


 そう。改めて、念を押されなくても、わかっている。小日向くんは、わたしのことなんて、べつに好きじゃない。


 わたしが小日向くんのために、どんなに強くいようとしても、小日向くんにとっては、それは関係のないこと。


「手伝ってくれて、ありがとう。うれしかった」


「うん」


 ちゃんと、わかってるよ。図書館でのあのキスも、真実をわたしだけに打ち明けてくれたことも、小日向くんはほんの少しラクになりたかっただけなんだって。


 わかっているから、つらくない。


「沙都なら、きっと一緒に向き合ってくれるよ。沙都を信じて」


「皆川さんも、そう祈っててくれる?」


「うん。心から」


 力強く、うなずく。わたしには、それしかできないから。だって、小日向くんに愛されているわけじゃないから。


「じゃあ」


「うん」


 しつこく、まだ周囲の視線を感じる中、小日向くんと別れた。そして、お弁当の代わりのパンを買いに購買へ行こうとしたんだけれど、あまり人気のない階段の前に来たところで。


「…………」


 張りつめていた神経が、静かに切れた。


 宙に浮いて、どこかに消えてしまった、わたしの小日向くんへの告白。ずっと、お互いに好きな人としたいと思ってた、初めてのキス。


 小日向くんの抱えているもののあまりの大きさに、わたしの思いの全てが行き場をなくしてしまった。そのとき。


「……また、おまえかよ?」


 横から聞こえてきた声に、ぐしゃぐしゃの顔で精一杯強がる。


「また、錬太郎くん?」


「ひどい顔」


「……知ってる」


 それには、反論の余地はない。


「バカじゃないか?」


「どうして?」


「全部、自分のせいだろ? なんで、よりによって、陽とそういうことになるんだよ? 沙都がいるのに。それくらい、考えれば……」


「何も知らないくせに」


 そこで、抑えがきかなくなった。


「錬太郎くんは、わたしのことなんて、何も知らないくせに」


「知るわけないだろ? 何も言わないんだから」


「だって……」


「何だよ?」


 どうせ、言ったって、わかってなんかもらえない。だって、錬太郎くんがいちばん大事に思っているのは、沙都なんだから。


「……今度、生まれ変われるなら」


「え?」


「わたしは、沙都になりたい」


「…………」


 錬太郎くんが、眉をひそめる。


「小日向くんに好きになってもらえて、錬太郎くんにも大切にしてもらえて」


 沙都なら、みんなから愛されて、守ってもらえる。


「わたしは、好きで、こんなふうに生まれてきたわけじゃない」


「やっぱり、バカだよ。おまえは」


 ほら。だから。言ったのに。


「錬太郎くんだって、バカだよ」


 まるで子供みたいに言い捨てて、教室まで走る。


 結局、パンは買わないで、空腹のまま一日過ごした。教室に戻ったら、またひとつ増えていた、机のいたずら書き。決して、わたしを見ようとしない、沙都。


 そして、家に帰ったら、お母さんから一言だけ告げられた。


「この家を出て、わたしの実家の方に住むわよ」


「……わかった」


 反対する理由も気力も、今のわたしには、ひとつも残っていなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る