第12話 真実



 次の授業のあった物理室へは行けなくて、誰もいない図書室で一人で過ごしたあと、四時間目の前に教室に戻った。


 わたしが足を踏み入れたとたん、張りつめる空気。当然、沙都は目を合わせてくれなかったから、黙ったまま、わたしは席に着いた。


「友達の間中さんを裏切るなんて、信じられない」


「よく学校にも来れるよね」


 そんな言葉を、クラスの女の子たちが沙都にかけているのが耳に入ってくる。もともと、沙都と仲良くなりたがっていた女の子はたくさんいたから、そんな子たちにしたら、わたしの存在はなおさら腹立たしいはず。


 ……それよりも、さっきは頭が回らなかったけれど、もしかしたら、小日向くんにキスの跡をつけたのも、わたしだと思ってるかもしれない。


 だけど、その誤解を解くことに、何か意味がある? 小日向くんの考えてることも全然わからなくて、むしろ、当事者であるわたしがかやの外にいるみたい。


 全てが不安でたまらない。誰にも、何も言えない。あのお母さんがいる、自分の家にだって、帰りたくない。わたしは、どこにいればいいの? 唯一の居場所にできた、書庫まで失っちゃったのに。





「皆川さん」


 押しつぶされそうだった授業が終わって、全てから逃げるように、学校の門を出ようとしたときだった。


「一緒に帰ろうよ」


 小日向くんの声に驚いて、振り向いて向いたら。


「それ……」


 視界に入ったのは、小日向くんの少し乱れた髪と、汚れたシャツ。


「ああ、これ?」


「どうしたの?」


 聞かなくても、わかるような気はしたんだけれど。


「皆川さんの想像どおりだよ。錬太郎」


 何もおかしくないのに、意味ありげに笑う、小日向くん。


「そうだよね。わたしのせいで、沙都が……」


「錬太郎がキレてるのは、そこじゃないと思うけどね」


「…………? とにかく、わたしは」


「何?」


「わたしは……」


 小日向くんといたら、いけない。そう思っているのに、ちゃんと言葉が出てこない。


「どうせ、行くところなんてないんでしょ?」


「……うん」


 今は、泣きそうになるのをこらえるのが精一杯だった。わたしを見透かすような目で見る小日向くんに、素直にうなずくしかない。


「じゃあ、行こう」


 心なしか、ずるい笑みを浮かべたあと、わたしがついていくのを確信しているかのように、小日向くんは振り返ることもなく、先を歩いていく。


 ほぼ無言のまま、小日向くんと電車に乗って、降りたことのない駅で降りた。そして、古い商店街のような道をまたしばらく歩いていき、そこを抜けたところで、まさかと思ったけれど。


「待って、小日向くん」


「ん?」


 多分、わざと何でもないように聞き返してくる、小日向くん。現実味がないけれど、小日向くんが向かおうとしているのは、ホテル街。


「制服で、こんな……」


「大丈夫だよ。支払いとかも機械だから」


「そういう問題じゃなくて」


 わたしの声なんか耳に入らないかのように、小日向くんは慣れた調子で、品のない装飾の施された派手な門をくぐっていく。


「小日向くん!」


 小日向くんが自動ドアの前に立ったところで、やっとの思いでシャツの袖をつかむ。


「どうしたの?」


「わたし、入れないよ」


 だって、ここは……。


「二人で、少し話そうよ」


「話す……?」


 そんなの、きっと本気じゃないって、わかっているのに。


「どの部屋がいい?」


 言われるがままに、小日向くんと建物の中に入ってしまった。どこか不自然で、ちぐはぐな印象を与える部屋の写真のパネルが、いくつか並んで光っている。


 怖い。不安をあおる、この違和感のある雰囲気にのまれそうになる。


「どこでもいいか」


 そう投げやりな調子でそうつぶやくと、小日向くんは適当なボタンを押して、出てきたカードを手に取った。そして。


「こっちだよ」


 昨日のキスと同じ。わたしがあらがえないことを小日向くんはとっくに承知していて、エレベーターのボタンを押す。


「ついてくるなんて、意外だった」


「そんな……」


 こんなところに来て、まだ意地悪くそんなことを言ってくる小日向くんは、ひどい人だと思う。でも、それでもついてきてしまったのは、たしかに自分の意思。


 だって、知りたい。小日向くんの本当の気持ちや、真実を。


「ここだ」


 小日向くんの声に顔を上げると、ドアの横の部屋番号がチカチカとネオンみたいに点灯してる。


「あ……」


 部屋のドアを開けるなり、大きなベッドが目に飛び込んできて、面食らった。テレビの大画面も、よくわからない自動販売機も、全てから目を背けたくなる。


「こういうところ、初めてだっけ? そっか、誰ともつき合ったことないんだもんね」


「ううん、あの……」


 目を背けたいと思いながらも、周りのものを凝視していたのかもしれない。恥ずかしくなって、目を伏せる。


「座りなよ、とりあえず」


 そう言って、ベッドに身を沈めた小日向くんと離れて、あまり座り心地のよくないソファの方に、わたしは腰かけた。


「話しにくいよ」


 そんなわたしを見て、苦笑いしながら、小日向くんがわたしの隣に座り直す。


「あの……」


 何か話していなくちゃ。そんな危機感を持って、口を開いた。


「やっぱり、誰かに見られてたの?」


「うん。うちのクラスの、くだらない女にね」


 吐き捨てるように答える、小日向くん。


「ごめんなさい」


 もう、取り返しなんて、つかない。一時の自分本位な感情におぼれ、一瞬でも沙都のことを忘れて、小日向くんの体温に夢中になってしまった自分を、どう悔やんでも悔やみきれない。


「ごめんなさいって。どこまで人がいいの?」


 小日向くんが乾いた笑みを見せる。


「だって……」


 逃れようと思えば、逃れられたはずなのに、わたしは自ら飛び込んだようなものだから……と、そこで。


「でも、ちょうどよかったんだ」


「ちょうどよかった?」


 小日向くんの言葉にびっくりして、顔を見上げた。


「いろいろ、沙都に気づかれ出してたから」


「あ……」


 沙都の話を思い出して、自然と小日向くんの首筋に目が行く。


「聞いてるでしょ?沙都から」


「……うん」


 正直に、わたしはうなずいた。


「皆川さんのおかげで、手間が省けた」


「どういうこと……?」


 全く、意味が理解できない。放心状態で、真意を聞き返す。


「沙都の中で、今までのこと全部、相手は皆川さんだったってことになったみたいだから。本当のこと、沙都にだけは知られたくなかったんだよね。言い訳を考える必要がなくなって、助かったっていう話」


 ……それは、つまり。わたしは、小日向くんに利用されたの?


「ねえ、皆川さん」


 知らない間に頬を伝っていた涙を、小日向くんに拭われた。


「皆川さんは、俺のことが好きなんだよね? 何度も、そう言ったよね」


「わたしは……」


 今度は、その涙の通った道筋にそって、キスを繰り返される。


「だから、事実にしちゃえばいい」


 小日向くんの唇が徐々に首筋から下に移行して、わたしのブラウスのボタンが器用に外されていく。


「やだ……」


 好きだった。ううん。こうしている今も好きでたまらない、小日向くん。だけど、こんなの、あまりに悲しい。


「やめて、小日向くん。お願いだから……」


 麻痺したように、動かない体。かろうじて聞こえるくらいの、小さな声を出す。


「本当に、嫌なの?」


 わたしの胸元から唇を離して、今度はスカートのホックに手がかけられる。


「わたしは……」


 涙が小日向くんに落ちていかないように、部屋の天井を見上げた。


「産まなければよかったんだって」


「…………」


 小日向くんの手が、ゆっくりと止まる。


「意味がなかったって」


 言われたときは、あきれるほど感情なんか湧き起こらなかったけれど、今は違う。


「べつに、それはいいの。最初から、わかってたことだから。でも……」


「うん。何?」


 無表情の小日向くんが、わたし顔を見つめる。


「小日向くんには……」


 嗚咽を抑えながら、最後まで吐き出す。


「小日向くんにだけは、こんなどうでもいいものみたいに扱われたくない」


 しばらく沈黙が続いたあと、小日向くんはわたしから離れて、水を一口飲んだ。その間に、ソファに座ったまま、服を直す。そして、よけいなことを口にしてしまったことを、早々と後悔していると。


「やっぱりね」


 こっちを向いた小日向くんは、自嘲気味に笑っていた。


「そんなことだろうと思った」


「何が……?」


 小日向くんは、いつでもわたしの心をかき乱す。


「ずっと感じてたんだ。皆川さんって、昔の俺みたいだって」


 さっきとは空気が違う。


「俺もね」


 また隣に座り直して、小日向くんは続けた。


「毎日、母親に似たようなこと言われてきた。いなければいいのにとか、邪魔な人間だとか」


「そんな……」


 信じられない。小日向くんまで、そんなひどい言葉を自分のお母さんに浴びせられ続けていたなんて。


「だけど、やっぱり気に入られたくてさ。いつも、母親の顔色ばっかりうかがってた」


「……うん」


 それは、わかるよ。そして、そんな自分と正反対の相手を自然と求めるのも。


「だけどね、皆川さん。今と比べれば、その頃の方が、全然マシだったよ」


「え……?」


 小日向くんの声が、震えていることに気がついた。


「小日向くん……?」


「父親が出張で帰ってこなかった六年生の夜、全てがひっくり返ったんだ」


 ……まさか。


 ううん、そんなわけない。ふと思い浮かんだ考えを、打ち消そうとする。小日向くんが、絶対に沙都に知られたくなかった秘密って……。


「自分の子供の体をむさぼる母親なんて、存在すると思わないでしょ?」


「あ……」


 声が出ない。ただ、苦しい。


「逃れようと思えば、逃れられるはずなのに。体が勝手に受け入れるんだ」


「そん……な……」


 現実なの? わたしは、悪い夢を見ているんじゃないの?


「これの相手はね」


 シャツに隠されていた、わたしには痛々しく見える、その跡。


「父親の目を盗んで、今も俺のベッドに入ってくる、俺の母親だよ」


「…………」


 小日向くんの顔を見ることができない。


「この汚い体に、自分でも吐き気がする」


「汚くなんかないよ」


 必死で、首を横に振る。


「汚いわけがない」


 小日向くんの苦しみは、わたしなんかには計り知れないけれど、他の人よりは少しだけ、理解できる気がするから。


「小日向くんは、汚れてなんかないよ」


 昨日、小日向くんに抱きしめられて、キスされて、わたしは初めて、人肌の温かさに触れたの。小日向くんに何とも思われていないことも、わかっていたのに。


 それでも、小日向くんの熱に包まれる感覚は、どうなってもいいと思うほどに幸福だった。


「ごめん。今だけだから」


「……謝らないで」


 小日向くんに、ただ静かに抱きしめられながら、わたしの頬に再び温かい涙が伝う。きっと、小日向くんもわたしと同じ。ひたすら、ずっと人の体温を欲しているんだ。


「人って温かいよね、皆川さん」


「うん……」


 こんな部屋で流す涙は、すごく滑稽で。まるで、わたしたちの無力さを象徴しているようだった。



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