第11話 何も見えない



「おはよう、波流ちゃん」


「あ、おはよう」


 学校へ向かう道の途中で、いつも以上に明るく、わたしに声をかけてくる沙都。でも。


「どうしたの?沙都、すごく顔色が悪い」


 見て、すぐにわかるほど。そのせいで、昨日自分がしてしまったことも頭から抜けて、自然に言葉が出てきたんだけれど。


「昨日、よく眠れなくて」


「そう……だったの?」


 心臓が大きく音を立てる。


 ……いったい、時間にしたら、どれくらいだったんだろう? あれから、わたしと小日向くんは、閉館のアナウンスが流れるまで、あの場所にいた。幾度となくキスを繰り返して、小日向くんの放つ甘い匂いに、むせ返りそうになりながら。


「でも、大丈夫だよ。気にしないで、波流ちゃん」


「大丈夫じゃないよ」


 わたしに、そんなことを言う資格があるとは思えないけれど、力なく笑う沙都は純粋に心配だった。


「学校着いたら、保健室に行った方がいいよ」


 昨日のことは沙都に知られているはずはないし、あれは多分、小日向くんの何らかのいら立ちからのわたしへのやつ当たり。


 そんな小日向くんの思惑に流されて、沙都を裏切り、あんな過ちを犯すつもりも二度とない。でも、罪滅ぼしのつもりなんかではなく、本当に沙都のようすは気がかりだった。


「ね?お願い、沙都」


「……波流ちゃん」


 それでも、沙都に見据えられると、緊張が走る。


「やっぱり、思い違いじゃなかったの」


「何が……?」


 どうにか気を静めながら、聞き返す。


「陽くん。やっぱり、浮気してたの」


「…………」


 沙都が今言っていることは、わたしとのこととはまた別の問題を指しているんだろうけれど、罪悪感に押しつぶされそうになる。ただ、わたしも小日向くんの投げやりな雰囲気から、そんな予感はしていた。


「何か、あったの……?」


 沙都も自分のことでいっぱいいっぱいだったから、わたしの不自然な態度には気がついてない。


「前から、なんとなくは感じてたの。陽くん、わたしだけじゃなくて、他の誰かも抱いてるんじゃないかって。わたしとつき合う前から、今もずっと。きっと、同じ人」


「え……?」


 想像をはるかに超える、沙都の重い告白。


「でも、それは沙都の思い過ごしかも……」


「昨日、帰るときに見つけちゃったんだ。このへんの赤いアザみたいな跡」


 制服の襟を少しめくって、沙都が首筋を示す。


「アザ?」


「わたしもね、前つき合ってた先輩に、よくつけられてたから。すぐわかった」


 うつむいて、少しためらいながら説明する沙都のようすから、わたしにも意味がわかった。つまり、独占欲を示す、キスの跡。


「また、陽のことで、ぐちゃぐちゃ考えてるのかよ?」


「錬太郎」


 沙都が、声のする方を振り返る。


「何かあるなら、本人に直接聞けよ。嫌なら、別れればいいし。それだけだよ。俺には、あいつに浮気なんかする理由がないと思うけど」


 つまらなそうに言って、ため息をつく錬太郎くん。わたしも最初は、そう思っていた。


「だって……そんな簡単にはいかないもん」


「のんきすぎるだろ? 進路のことでも、少しはちゃんと考えれば?」


 そこで、また自分の状況を思い出す。


「錬太郎の意地悪」


「何が意地悪だよ?」


 二人の会話をぼんやりと聞き流しながら、自分のこれからのことを考えてみる。


 昨日は小日向くんとほとんど何も話さないで別れたあと、家に帰ってみたら、割れた食器が散乱していたキッチンに驚いた。


お母さんは疲れたのか、ぐったりとして、ベッドに横になっていた。お父さんが来ていたのかどうかは、わからない。


 この先、わたしは、どうなるんだろう? ちゃんと高校は卒業できるの?


「波流は?」


「えっ?」


 錬太郎くんに急に話を振られて、びっくりした。


「波流は、四大?」


「えっと……」


 一応、調査票を書いてはきた。


「できたら、国文科に行けたらって。教育学部じゃなくても、国語の教員免許は取れるみたいだし」


「教員免許? なんで? この前は、そういう気、全然なさそうだったのに」


 錬太郎くんは、に落ちない表情。


「それは、そうなんだけど。でも、錬太郎くんにあんなふうに言ってもらえて、うれしかったから……それで、考えが変わって」


 素直な気持ちを、思わず正直に話したら。


「…………」


「どうかした? 錬太郎くん」


 なぜか、急に黙り込んでしまった、錬太郎くん。すると。


「顔赤いよ、錬太郎」


 ひやかすように、沙都が笑う。


「誰がだよ?」


「照れなくてもいいのに。知ってるでしょ? 錬太郎と波流ちゃん、噂になってるの」


「ちょっと、沙都……!」


 空元気で、はしゃいでる沙都に。


「つき合ってられない。沙都。とにかく、おまえは保健室で寝てろ」


 錬太郎くんは、そう言い残して、先を急いでいく。


「沙都……」


「わたしなら、大丈夫」


 わたしを見上げて、沙都は笑った。


「わたしのことがいちばん好きだって言ってくれる、陽くんの言葉を信じる。絶対、負けないもん。何があっても目を背けないで、立ち向かう」


 自分に言い聞かせるみたいに、そう口にした沙都。たしかに、わたしの目の前で沙都を抱きしめながら、小日向くんもはっきり、そう伝えていた。何があっても、誰が何と言おうと、好きなのは沙都だけだって。


 ねえ、小日向くん。昨日のキスは、小日向くんにとって、どんな意味があったの? やっぱり、気まぐれで、わたしを傷つけたかっただけ?


 ……きっと忘れた方がいいんだよね。その答え合わせをしたって、もっと傷が深くなるだけだから。


「行こう、波流ちゃん」


「うん」


 それでも、わたしは感触を呼び起こしてしまう。小日向くんの冷たい唇と、熱い体温を。





 なんとなく、不穏な空気を感じ出したのは、二時間目の終わった休み時間くらいからだった。わたしを見ながら、周りの子たちがあからさまにヒソヒソ話をしている。


「どうしたんだろうね?波流ちゃん」


 最近は、錬太郎くんのことで注目されてはいたみたいだけれど、それにしても、雰囲気が昨日までと違う。


「気にしない方がいいよ?波流ちゃん」


「うん」


 まさか、見られていたなんてこと、ないよね?次の物理の授業の移動の準備をしながら、平静を装って応える。だって、あんな場所、いつも誰も来ない。


 だけど、言い切れる?その可能性がゼロだって、本当に……。


「あ、陽くん」


 小日向くんの教室の前で、いつものように小日向くんの名前を呼んだ、沙都。途端に、周りの視線がわたしに集まるのが、わかった。


 疑念が確信に変わる。間違いない。誰かに見られていたんだ。当然、こっちに近づいてくる小日向くんは、わたしのことなんか見てもいない。これから何が起ころうと、わたしは一人だ。


「どうしたんだろう? 雰囲気が何か変だよね」


 小日向くんに不思議そうな表情を浮かべて、話す沙都。今のその姿は、不安なん微塵も感じさせない。きっと、何でも乗り越えていく覚悟があるから。


「どうせ、他愛たあいもないことだよ」


 小日向くんも、いつものように軽く笑う。そう。あの一瞬、わたしにとっては、何もかも失ってもいいとさえ思った、あのキスも……小日向くんにとっては、他愛のないこと。


「わたし、教室で待ってるね」


「波流ちゃん?」


 周囲の射すような視線にいたたまれなくなって、沙都の声に背を向け、わたしは逃げ出す。わたしは自分が考えていたよりも、ずっと臆病で、そのくせ、ずるい人間だったと思い知らされる。


 わたしは、天真爛漫な沙都が、ずっとうらやましかった。でも、違った。その裏にあった強さに気づきもしないで、勝手に妬んでいただけ。


 わたしは、どうしたらいいんだろう? 沙都を傷つけたくないのに……。





「ちゃんと、前見て歩けよ」


「すみませ……あ」


 何も考えずに、うつむいて小走りしていたら、廊下でぶつかってしまったのは、錬太郎くんだった。もう、錬太郎くんの耳にも入っているかもしれない。


「あの……」


「ちょうどよかった」


「え……?」


 錬太郎くんの言葉に、ドキリとする。


「ちょっと来いよ」


「今?」


 予想と違って、錬太郎くんの口調は穏やかだったから、錬太郎くんには、昨日の話はまだ伝わっていないのがわかった。


「そう、今」


 全く、心当たりがなかったんだけれど。


「うん」


 わたしはおとなしく、錬太郎くんの後をついていく。


 ……いつだったっけ? そうだ。夜、家を飛び出して、沙都に会いにいこうとした日、駅前まで錬太郎くんがわたしを探しにきてくれたんだ。あのときも、こんなふうに錬太郎くんの背中を見ながら、二人で歩いたんだ。


 あのときは、錬太郎くんのことが、憎たらしくってたまらなかったっけ……。


「何だよ?」


「ううん」


 つい思い出し笑いをしてしまったら、不機嫌そうに錬太郎くんが振り向いた。


「気持ち悪い女だな」


「いいの」


 笑っていないと涙が出てきそうだから、不自然なくらい、わたしは笑みを浮かべた。


「どこに行くの?」


「図書室」


「図書室? また、何かの手伝い?」


「まあ、それもあるけど」


 何があるのか、錬太郎くんは楽しそうだった。


「ほら。見てみろよ」


 図書室のドアを開けるなり、得意な表情をする錬太郎くん。訳もわからず、カウンターの方に目を移すと。


「あ……」


 そのカウンターの上に積まれた古い本は、偶然にも、わたしが小さい頃に憧れを抱いていた世界文学全集だった。


「どうしたの……? これ」


「近くの特別支援学校が廃校になって、本が回ってきたんだよ」


「そうなんだ……」


 だいぶ古く、傷んではいるけれど、きちんと手入れをされた本の表紙に、そっと触れる。


「捨てるっていうから、一応取っておこうと思って」


「じゃあ」


 もう一度、驚いて、顔を上げる。


「この本、わたしがもらってもいいの?」


「いいよ」


 少し意地悪く、錬太郎くんは笑った。


「残りの本の補修、手伝えばね」


 その錬太郎くんの言い方が、やけに照れているように感じられて。


「うん。手伝うよ」


 おかしさをこらえながら、返事した。『優しいところもあるんだけどね』と、いつか沙都が言ってたとおり。


「何笑ってるんだよ?」


「笑ってないよ」


 本を抱えながら、クスクスと声を漏らす。


「笑ってるだろ?」


「笑ってないってば」


「波流」


「笑ってないって」


「どうして、泣いてる?」


「…………」


 無理に笑っているふりをするのをあきらめて、黙って本を見つめた。


「波流……?」


 だって、これで最後みたいな気がするから。錬太郎くんが昨日のことを知ったら、こんなふうには、もう話してもらえない。


 でも、自業自得だよね。錬太郎くんの大切な沙都を裏切ったのは、わたしだから。ううん。沙都はわたしにとったっても、初めてできた、かけがえのない友達だったのに……。


「わたしね」


 本から視線を移さずに、わたしは続ける。


「この本、ずっと大切にする」


 錬太郎くんのことも。最初の出会いは最悪で、“こんな人、大嫌い”と思っていたけれど。


「宝物にするから」


 今は違う。もし、錬太郎くんがいてくれなかったら、わたしはきっと、誰にも心を開けないままだった。


「波流?」


「わたし……」


 だから、もしできれば、錬太郎くんとは、ずっとこんな関係でいたかった。


「行くね。本、ありがとう」


「え?」


「次、物理室だから」


 首をかしげる錬太郎くんを残して、一冊だけ本を抱え、図書室を出ようとすると。


「波流ちゃん」


「沙都……」


 ちょうど、ドアに手をかけた瞬間、そのドアは先に沙都の手によって、勢いよく開かれた。


「ここにいたんだ? 探してたの」


 泣きそうな顔で笑う沙都の口から、何を聞かされるのか、すぐにわかった。


「みんなが、変なこと言うの」


「何だよ?」


 錬太郎くんが近づいてくる。聞かれたくない。錬太郎くんにだけは、聞かれたくない。でも、もう、どうにもならない。


「嘘だよね?」


 すがるような目で、沙都がわたしを見るけれど、わたしは沙都を直視することができない。


「嘘だよね?波流ちゃん。陽くんは、何も言ってくれないの」


「落ち着けよ、沙都」


 わたしのひじに手をかけた沙都を、錬太郎くんがなだめた。


「何なんだよ? いきなり」


「だって……」


 覚悟を決めて顔を上げたら、見たこともないくらい悲痛な表情で、沙都が瞳に涙をためていた。思わず、反射的に目をそらしてしまう。


「嘘だよね?波流ちゃん。陽くんと波流ちゃんが、キスしてたなんて」


「いいかげんにしろよ」


 そこで、錬太郎くんが少し大きな声を上げた。


「その話なら、うちのクラスでも朝から話題に上ってたけど」


 わたしの心臓が、今度は凍りついたようになる。


「波流が、そんなことするわけないだろ?」


 今のわたしにとって、その錬太郎くんの言葉は、想像できる中で最もつらいもの。


「わたしだって、そう思ってるよ?でも……」


「だったら、そんなくだらないこと、わざわざ口に出するなよ」


「違うの。だから、波流ちゃんが一言否定してくれれば、それでいいの」


 …………。


 失いたくなかったのに。沙都も、錬太郎くんも。今ここで、目の前の会話を聞いているだけで、十分すぎる罰を受けているのに。


「ごめんなさい」


「波流ちゃん……?」


 それでも、わたしは他に方法が思いつかない。


「沙都、ごめんね……」


 沙都のことを考えたら、隠し通すべきだということは、自分でもわかっている。


「ごめん、錬太郎く……」


 沙都を傷つけて、ごめんなさい。謝ってすむことじゃないって、それもわかっている。だけど、どうしても、錬太郎くんにだけは嘘をつきたくない。


「謝ってなんかほしくなかった」


 泣きながら図書室を出ていく沙都を、無力なわたしは、ぼう然と見つめるだけ。そして。


「……結局、そういうことか」


 去り際に残していった錬太郎くんの重い言葉が、いつまでもわたしの頭の中に残っていた。



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